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2011年3月11日に起こった東日本大震災を機に、それ以降、毎年、復興のために祈り、捧げ、支えるために復興祈祷礼拝を行ってきました。そして今回は、昨年元日に起こった能登半島震災の復興のために祈り、捧げ、支えるということが加わりました。
今年は、松任キリスト教会の高木順一先生からのビデオメッセージをいただきました。現場におられる先生の話は貴重です。
私たちは、その現場から遠くにいると、臨場感が薄れます。ニュースの映像を見ても、想像力を持って見ないとなかなか臨場感を持つことは難しいものです。
しかし今日、私たちはその想像力をたくましくして、被災者のため、被災地のために祈り、支援する地元の教会の働きのために祈ります。そして、捧げます。それが今日の聖書の言葉、共に泣くことであり、痛みを共有することになるのです。
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今日の箇所の言葉は、この復興祈祷礼拝では何度も開き、聞いてきた言葉です。これは、12:1で私たちキリスト者に、神に喜ばれる聖なる生きた供え物として生きることが勧められています。その生き方の一つが、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くということなのです。
聖なるとは、神にふさわしいという意味があります。12:1には、これが霊的な礼拝である、と言われています。霊的なとは、理にかなったという意味の言葉です。ですから、霊的な礼拝とは、神にふさわしく生きる礼拝という意味になります。その一つが、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣くことです。
今日の15節は、その前の13節との関係から読みます。13節の訳をそれぞれ見ますと、新改訳第3版「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」。新改訳2017{聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい}。口語訳「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」。新共同訳「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい」。協会共同訳「聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすように努めなさい」。
多様な訳になっていることがわかります。そして、教会のあるべき姿が語られていることがわかります。神の義と力が表されている福音によって救われた私たちキリスト者、そして教会はこのように生きるのです。
新改訳2017の「ともに満たし」との言葉に注目します。このことは15節では「いっしょに」という言葉で勧められています。「ともに」とは、コイノーニアという言葉です。交わり、共有、分かち合うという意味です。これは、教会の姿を的確に表す言葉の一つでもあります。
15節の、泣く者と一緒に泣くことは、13節の、聖徒の必要を満たすことの具体的な姿の一つです。もちろん、必要なものを提供することでもあります。貧しい聖徒を助けるということも同じです。助けることによって自分もその恵みを受けるのです。それが15節の「いっしょに」なのです。
いっしょにとは、真ん中、~間という意味の言葉です。そこから「同行する、同伴する」という意味になります。それが教会の姿です。それで新共同訳は、聖なる者たちの貧しさを自分のものとして助け、と訳すのです。悲しみ、痛みを自分のものとして担う、これが教会の姿です。共に生きる教会です。
何よりもこの姿は、主イエスのお姿です。私たち教会は、主イエスのお姿を表しているのです。私たちはこの自覚を持ちたいものです。
教会は、キリストの証人の集まりです。主イエス・キリストが悲しむ者の悲しみをいっしょに背負って下さいました。痛みを担って下さいました。ですから、私たちキリスト者も同じようにするのです。
今も主イエスが痛みと悲しみを背負って下さっています。ですから、私たちは自分の悲しみを背負いつつ、泣く者の悲しみを担い、必要をいっしょに背負うのです。その人たちの真ん中に立ち、いっしょに歩むのです。悲しみを共有し、痛みを共有するのです。
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今、祈祷会では、Ⅱコリントを読んでいます。まだ2章の初めの所ですが、この後進んでいきますと、8章になります。この箇所でパウロは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを知らせたい、と言います。
それは、エルサレムの教会の困窮、窮状を助けるためにマケドニアの諸教会が献金をしたことでした。マケドニアの諸教会は、決して裕福だったというわけではありませんでした。しかし、彼らは力以上に捧げた、とパウロは言います。
そしてそれが彼らに与えられた神の恵みであったというのです。この視点、信仰の視点は大切です。今日、このⅡコリント8章について詳しくお話しする時間はありませんが、一つだけ触れます。
Ⅱコリント8:4に、マケドニアの諸教会が、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたい、と熱心に願った、とあります。この「交わり」がコイノーニアという言葉です。
捧げることは、コイノーニア=交わりであり、共有です。そして聖徒たちを支えるために捧げることは、恵みなのです。悲しみを共有し、痛みを共有することは恵みなのです。
Ⅱコリント1:15では、パウロがコリントの教会の訪問について、あなたがたが二度恵みを受けられるようにコリントに行くと言います。
今日、私たちは祈り、そして捧げます。聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと思います。
主イエスに従って行くこととして、神に喜ばれる生きた聖なる供え物として、神にふさわしい者として、共に泣き、痛みを共有していきましょう。