私ごとですが、昨年まで中央聖書神学校で礼典論の授業を持っていました。礼典というのは、洗礼と聖餐です。礼典は、教会を建て上げるうえでなくてはならない大切なものです。今日の箇所は、私たちが大切にしている聖餐を受けることの根拠、理由、意味です。これこそが私たちのこの集まりをキリストの教会とする働きです。
もちろん、今日の午後にもたれる教会会議も大切な働きです。この会議は決して事務的なことではなく、私たちを一つにする働きなのです。
私たちの教会は、今年70周年を迎えます。今、教会の通史を書く準備をしています。その中に書くべきことは、私たちの70年の歴史は、主の晩餐=聖餐を忠実に守ってきた歴史だということです。それは、礼拝を守ってきた歴史です。
さまざまな出来事、働きがありました。それがそのまま歴史なのですが、教会の歴史は、どんなことがあってもこの主の晩餐=聖餐を守ってきたということが歴史なのです。
その意味で今日の箇所は、私たちが救われ、生かされていることを教え、私たちをしてキリストの教会とする源を教える箇所です。
いつか機会が与えられたら、神学校の授業で講義したことを学べたら感謝です。
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皆が食事をしている時、つまり過越しの食事をしている時です。その食事のクライマックスと言える時です。
ルカは他の福音書より比較的細かくその食事の様子を書いていますが、マルコはその食事のクライマックスの所に焦点を当てています。この食事の意味することです。これが私たちの聖餐の意味でもあります。
主イエスは、パンを取り祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。取りなさい、これは私の体です。同じように杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに与えて言われました。これは私の血、契約の血です。ここにクライマックスを迎えます。過越しの食事、聖餐の意味することです。
細かいことですが、「パンを取り、祝福して」とあり「杯を取り、感謝をささげて」とあります。パンは「祝福して」杯は「感謝をささげて」。
原語では、それぞれ違う言葉が使われていますが、共に「祝福する、感謝する」という意味を持っています。ここに聖餐の意味があります。祝福するとは、賛美する、ほめたたえる、感謝をささげるなどの意味があります。
神をほめたたえ、賛美することは神を祝福することです。それは神の祝福を受けたことを喜び、神をほめたたえることです。私たちは、聖餐を受ける時、神をほめたたえてこれを受けます。神の祝福を受けた者として、神をほめたたえます。主イエスがこのことをなさったのです。
ですから、聖餐式の司式者である牧師は、主イエスに倣い、これは主イエスの体、主イエスの血と言って神をほめたたえます。そしてこれを受ける私たちは共に神を喜び、ほめたたえ、感謝するのです。これが聖餐です。
最初の教会は、集まるたびに喜びと真心をもってパンを裂きました。聖餐を行いました。礼拝をしました。
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今日の箇所は、主イエスがなさったことを丁寧に書いています。パンについては五つの動詞で言い表しています。取り、祝福し、それを裂き、与えて、言った。その言った言葉が「取りなさい、わたしの体だ」。杯についても、取り、感謝をささげ、与えて、言った、と記します。その言った言葉が「これは私の契約の血、多くの人のために流されるもの」。
福音書が実に丁寧に、細かく書いているのは、この主の晩餐に主イエスの十字架の意味が語られているからです。今まさに十字架にかけられて死なれる主イエスが、過越しの食事の時、この食事の意味することをお示しなったのです。屠られる小羊の肉と血の意味をお教えになったのです。
肉と血、それは命そのものです。これは私の体、私の血と言われた時、それは主イエスそのもの、主イエスの命そのものを言い表されたのです。これは多くの人のために流される私の契約の血、と言われます。契約の血とは、神と私たちを結びつける血です。キリストが流される血によって、神は私たちを救うという契約、神の約束です。私たちに命を与えるという約束です。
その肉を食べ、血を飲むということは、キリストの命を受けることです。パンと杯はそれを表します。キリストの命は私たちを生かす命です。ここに聖餐の恵みの奇跡があります。
私たちは、主イエス・キリストの命によって救われ、その命を受けて永遠の命に生きる者となったのです。聖餐はこのことを意味します。ですから、主イエスを信じる者でなければ、このパンと杯を受ける意味がないのです。
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主イエスは、ここでも言われます。「まことにあなたがたに言う」。アーメン、わたしは言う、と言われます。
神の国で新しく飲むその日まで、もはや私はぶどうの実から取ったものを飲むことはない。
これはいつのことを言っているのでしょうか。命を受けるという主題からは少々ずれますが、大切なことです。聖餐の意味することです。
神の国で新しく飲む日とは、いろいろな読み方があります。主イエスが甦られた時、また教会が聖餐を始めた時ということがあります。もう一つは、主イエスが再び来られる日ということです。
聖餐は、この時を目指しています。神の国で新しくの日、主イエス・キリストの再臨の日を目指していると言って良いと思います。聖餐を受けることは、この希望に生きることです。
聖餐は、主イエスの命を受け、主イエスの再臨を待ち望むという希望を持って受けるのです。この聖餐によって、私たちは主イエスの命を受けて生かされている者、希望に生かされている者であることを知るのです。