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今日も十字架に向かわれる主イエスのお姿、御言葉に目を向けましょう。
前回、主イエスの十字架の死は、人間の思惑、策略ではなく、神の御計画であることをお伝えしました。神の御計画は、私たち人間を罪から、滅びから、死から救う神の御業です。その御計画は、主イエスの十字架の死と復活によって実行されます。今日もその十字架に向かう主イエスに目を向けます。今日の箇所は、主イエスが十字架におかかりになる前夜の出来事です。
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今日は、ユダの裏切りのことから読みました。ユダは主イエスを売ろうとして、と記されています。「売る」という言葉は「引き渡す」という意味の言葉です。主イエスが、ご自分が殺され、三日目によみがえるということをこれまでに三度、予告されました。その予告の中で「人の子は引き渡され」と言われました。
主イエスが予告されたということは、主イエスはユダの思惑で殺されたのではない、ということです。このことは、主イエスご自身が今日の箇所でも言われていることで明らかです。人の子は去っていく、しかし、人の子を裏切る=引き渡す者はわざわいだ(21節)。引き渡されることを主イエスは予告しておられました。それは神の御計画だということです。
神の御計画は、必ず成し遂げられます。しかし、それとは知らず、自分の良く、思惑で何か事を起こそうした者はわざわいだ、と言われます。このことを心に刻みたいと思います。
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十字架の前夜、過越しの小羊を屠る日のことです(12節)。イスラエルの民がエジプトの奴隷から救われたことを思い起こすために、過越しの祭りの時には小羊を屠ります。そしてそれを食します。今日の箇所は、この食事こそが後の教会の食事、主の晩餐、聖餐の由来であることを教えます。
この食事は、神の救いの御業を喜ぶ食事です。ですから、私たちの聖餐も喜びの食事なのです。この小羊を屠るということこそ、主イエスの十字架を意味することです。過越しの祭りが指し示していることこそが主イエスの十字架の御業の意味です。
バプテスマのヨハネが主イエスを指し示し「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言った言葉の意味です。ヘブル9:22にある通り、罪は血を流すことによってのみ償われます。主イエスの十字架の死は、世の罪を取り除く神の救いの御業なのです。過越しの祭りの時に屠られる小羊こそ、主イエスの十字架の死の意味なのです。
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主イエスと弟子たちの過越しの食事の席は不思議な方法でもうけられました。16節には、主イエスの言われたとおり、と記されています。これは、この食事の席、食卓は主イエスがプロデュースしたということです。
弟子たちは、過越しの食事の準備をしました。今日、私たちが受ける聖餐の準備を係りの方がしました。しかし、その食卓のマスター、食事のマスターは主イエスです。この食卓は、主イエスが備えて下さった食卓です。
食卓を囲むということは、親しく交わることです。私たちは今日、聖餐の食卓を囲んで礼拝しています。聖餐の祝いをしない時でも、象徴的に聖餐台を前においてそれを囲むように礼拝するのが良いかもしれません。それは、礼拝とは主イエスが用意して下さった食卓を囲むことであり、主イエスと親しく交わることだからです。
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このような親しい食事の時、主イエスが最初に言われたことは、心が痛くなることです。主イエスは、ここでも「アーメン、わたしは言う」という言葉を持ってお語りになります。わたしと食事を共にしているあなたがたの中に、わたしを裏切る者=引き渡す者がいる。
弟子たちはこの言葉に心を痛めます。悲しくなってかわるがわる「私ではないですよね」と言います。
主イエスは「わたしと一緒に、同じ鉢にパンを浸している者が」と言われます。鉢の中にはたぶんオリーブオイルが入っていたと思います。種なしのパンはじつに味気なく、それでオリーブオイルをつけたのではないかと思います。
同じ鉢にパンを浸すということは、本当に親しい人同士だったということです。弟子たちは、裏切るという自覚はないけど自分ではないという確信もなかったのです。あるのは不確かな思いです。事実、ユダだけはなく彼らはこの後、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。裏切ったのです。
主イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪の故です。その罪は、神の言葉を無視するという罪です。まさか私ではないですよね。いや、あなたはどうでしょうか?
主イエスがこのことを言われた時、無表情で、無感情で言われたのではないと思います。弟子たちが悲しくなった以上に、主イエスはご自分を裏切る者たちを悲しみつつ、痛みつつこのことを言われたと思います。
弟子たちは、主イエスの復活後、聖霊を受け、教会を形成します。その時、いつも喜びつつパンを裂いていました。つまり聖餐の食事をしました。そのたびに、喜びとと共に主イエスの悲しみ、痛みを覚えたことでしょう。聖餐の食事は、主イエスの痛みを覚えることであり、私たち自身の痛みを主が痛んで下さったことを知るための食事であることを覚えたと思います。
そして、その痛みを包み込んでしまう大きな出来事である十字架の死の意味を知り、その恵みの大きさを覚えたことでしょう。聖餐が恵みの食事であることを確信したと思います。それゆえに喜びつつ、感謝しつつ、主の食卓を囲んだと思います。
私たちは今日、聖餐の恵みにあずかります。主イエスの言葉をないがしろにするという裏切る痛みを覚えつつ、しかし、その痛みを包み込む神の愛と恵みの御業、主イエスの十字架の御業を覚えつつ、感謝と喜び、真心をもって聖餐の恵みにあずかってまいりましょう。