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4月6日説教要旨 「イエスとは誰か」 マルコ14:53~65

今日はCBCサンデーとして中央聖書神学校校長の三宅規之先生をお迎えしての礼拝のはずでした。しかし、先生が体調を崩されたので、私が説教を取り継ぐことになりました。ですから、先週の週報の説教予告とは違うものになりますが、これもまた主の導きとして受け止め、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

今日は先週の続きです。主イエスの十字架への道行きに目を向けていきます。これまでマルコ福音書を丁寧に読んできました。マルコは、1:1で主イエスを神の子、キリストであると告白します。今日の説教題である「イエスとは誰か」ということの答えがすでに告白されています。

この告白はとても大切、重要です。この告白は、私たちが生きることと深く関わります。主イエスは神の子であり、キリストであると告白することは、その人の生き方を変えます。生き方を決めます。私たちキリスト者は、この告白によって生かされます。生かされるということは、召されていることです。主イエスのお姿に目を向けましょう。

ユダの裏切りと弟子たちの逃亡によって一人捕らえられた主イエスは、大祭司の所につれてこられました。弟子たち全員が逃亡したと思いきや、ペテロだけは隠れてついて行ったようです。これは次の箇所につながります。

大祭司の所は、ユダヤ人の社会を支配している人たちの所です。議会、最高法院とも言われます。国会、裁判所のような所です。この人たちは、主イエスを敵視していた人たちです。14:1には、何とかして、だましてでも主イエスを殺そうとたくらんでいた人たちです。そのチャンスが来たのです。

祭司長、長老、律法学者たちは、自分たちの思惑通りになったと思ったかもしれません。しかし、これは神の御心、ご計画が実行されたことでした。御心を行って下さい、と祈られた主イエスの祈りの神からの答えです。そして、これこそが聖書の言葉=神の御心が実現したことでした。この視点を忘れてはいけません。

裁判が始まりましたが、彼らの思い通りにはなりませんでした。何とか死刑にしようとするのですが、その証言が一致しません。58節の証言は、マルコ福音書には書いていませんが、それらしきことをヨハネ福音書2:19~22で主イエスが言われています。

この証言で語られた事柄、またヨハネ2:19~22の主イエスの言葉は、私たちキリスト者にとっては大切なことです。これは、主イエスの死と復活を意味していたからです。しかし、この証言をした人は聞きかじりであったのか、一致しませんでした。

そこで大祭司が立ち上がり、主イエスを尋問します。反対の意思はないのか、なぜ黙っているのか、と問いかけます。手詰まりだったのでしょう。そこで、大祭司は決定的な言葉を言わせようとします。「あなたはいと高き方=神)の子、キリストか」。

この大祭司の言ったことは、マルコ福音書が書きたかったことそのものです。神の御心が実現したと言えるのは、このことによります。主イエスはお答えになります。「私がそれだ」。

大祭司は決定的な証拠をつかんだと思ったでしょう。しかし、これこそ神の御計画であり、マルコ福音書の主題なのです。福音の中心的な事柄なのです。

主イエスのお答え「私がそれだ」という言葉は、重要です。旧約聖書において神がご自分を表す言葉としてお語りになった言葉です。「私はあるというもの」「私である」(出エジプト3:14)。

そして言われます。「人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたは見る」。人の子とは、主イエスがご自分のことを言う時に使われる言葉です。力ある方とは神のことです。

この主イエスの言葉は、私たちが告白する使徒信条の言葉そのままです。主は・・十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死にたる者を裁きたまわん。

大祭司はじめ、議会の全員は、主イエスのこの言葉を聞いて、主イエスを死刑に定めました。しかし、大祭司の尋問に答えたこの主イエスの言葉こそ、私たちの信仰の告白そのものです。

私がそれだ。神の子、キリストだ。私は神の右の座に着き、やがて天の雲に乗って来るのを見る。

主イエスこそ、神の子であり、キリストであり、死んでよみがえられ、天に挙げられ、神の右の座にお着きになり、もう一度来られる栄光の主です。

私たちの信仰の告白となった主イエスの言葉によって、主イエスは裁かれ、いたぶられ、辱められました。しかし、これは神の御心でした。

今日、私たちは聖餐を受けます。主イエスのお苦しみ、十字架の死は私たちを救うためです。聖餐をうけることは、このことを覚え、感謝することです。そして、主イエスこそ神の子、キリストであると告白することです。私の、私たちの救い主であると告白して生きることです。

この告白は、私たちをどのような時にも生かす告白です。私たちは、キリストにより、神によって選ばれ、召され、生かされています。

イエスとは誰か。神の子であり、私たちを救う救い主、キリストです。