今日は棕櫚の主日です。今日から受難週が始まります。主イエスのお苦しみを思う一週間です。今週の祈祷会は、水曜日ではなく木曜日に行います。主の晩餐の日です。十字架に向かわれる主イエスのお姿に目を向ける時です。主の晩餐を思い起こし、聖餐の恵みの時を持ちます。
今私たちが読んでいる箇所もまた、受難週にふさわしい箇所です。次週、イースターを迎えます。復活の日を迎えます。この輝かしい日を前に、主イエスのお苦しみを思います。主イエスの十字架への道行きをたどります。
先週、主イエスが大祭司の所で裁判にかけられたことを読みました。これが主イエスの十字架への道行きの本線とすれば、今日の箇所は、その本線と並行して、同時に起こった出来事です。ペテロの物語です。
本線である主イエスが裁判にかけられた場面で、私たちは、どのような時にも主イエスこそ神の子、キリストである、私たちの救い主であると告白することを学びました。
この本線と並行して起こった出来事では、ペテロが主イエスを、神の子、キリストと告白するどころか、主イエスを知らないと言ったことが起こりました。このことを見ていきます。
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前の箇所の54節に、捕らえられた主イエスの後をペテロが隠れるように遠くからついて行って、大祭司の庭の中まで言ったことが記されています。そして彼は火にあたっていました。
ペテロは、たとえ死ぬことがあっても、あなたを知らないなどとは言わない、とまで豪語した手前、隠れてではあってもついて行ったのでしょうか。
火にあたっていた、という言葉は、直訳すると「光にあたっていた」ということです。今日の箇所の67節にも火にあたっていたとありますが、ここは「温まっていた」という意味の言葉です。54節は、それに「光に」という言葉が加えられています。
主イエスの後をこそこそと遠く離れてついて行ったペテロを光が照らしている、というのです。彼は隠れていたが光が彼を照らし出していた、と言って良いのです。
その光に照らされたペテロを大祭司の女中がじっとみて「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言います。あなたもナザレのイエスの仲間だ、というのです。
ペテロは、身を隠したつもりでも光が彼を照らし出しています。ペテロが何に属しているのかを明らかにしています。
ペテロはそれを否定します。主イエスがペテロを「友」とまで呼んで下さったのに、仲間だと言って下さったのに、彼は否定します。そんな人は知らない。それも呪ってまで否定します。
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これはペテロの物語、と言いましたが、創作された架空の話ではありません。事実、起こった出来事です。
使徒たちは、このペテロの物語を福音として語りました。ペテロにとっては恥となるようなことですが、隠しませんでした。マルコ福音書は、ペテロの影響を受けていると言われます。ペテロが話したことを、使徒たちも話し、そしてそれをマルコは福音書を書くための資料としました。
それは、この出来事がペテロの物語であるのだけれども、これもまた福音として教会で語られ、伝えられたということです。そしてそれは、ペテロのことだけでなく、自分たちの物語、私たちの物語でもあるのだ、ということを意味しています。
ペテロの個人的な話だったら、ここまで語り伝えられることも、福音書に記されることもなかったでしょう。この福音書が書かれた時代、これは礼拝で読まれたと思われます。今と同じように。いや今と違うのは、自分で聖書を持っていなかったので、礼拝で読み聞かせられたということです。
「あのペテロ先生は、主イエスをしらない、そんな人は知らないと呪って言ったんだ。それも三度も言ったんだ。完全に否定したんだ。でも今は、私たちに喜びを持って主イエスのことを話している」。そのようなことだったのかもしれません。
呪って言ったと記されています。何を呪ったのでしょうか。自分を呪ったのでしょうか。主イエスを呪ったのでしょうか。誓って言ったということだったのかもしれません。
しかし、呪うということは、主イエスによって選ばれ、召され、救われたことを呪うことです。それは、神の祝福の中にいないと言っていることです。神の祝福を受け入れることができないということです。
このペテロの物語は、私たちの物語です。私たちもまた、神の祝福の中にいることを否定することがあります。私たちはいつもこの戦いにさらされています。
ペテロの物語は、古来、多くの人たちが自分の物語として愛読してきました。ペテロのことは他人事ではないのです。主イエスを知らないと言ったペテロはこの後、喜びを持って主イエスを伝える者に変えられました。
主イエスを否定した私を主イエスは恵みの中に捕らえて下さっている。神はその大きな御手の中にこの私を捕らえて下さっている。そして主イエスをあかしする者となった。
ペテロを捕らえたこの大きな神の御手は、弱さを持ったペテロと同じように、私をも、私たちをも捕らえて下さっています。
ペテロは鶏が鳴いた時、主イエスの言葉を思い出して泣きました。自分のふがいなさ、弱さ、意気地なさに涙したのでしょうか。それもあるでしょうが、主イエスの言葉を思い出したということは、自分を自分以上に知っておられる主イエスの愛を知ったのではないでしょうか。
このペテロの物語は福音として伝えられました。それは、これが私たちの物語として受け止められたということです。神の祝福を否定するような者を、神がその大きな御手をもって捕らえて下さった。
この受難週、十字架による救いの大きさ、恵みの大きさ、神の御手の大きさを覚える週としましょう。