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5月4日説教要旨 「主イエスの十字架 -聖書に書いてある通り」 マルコ15:20~32

四つの法則という伝道プログラムがあります。その中に「あなたの心の王座には誰が座っていますか」という問いかけがあります。あなたの王とは誰か、という問いかけでもあります。

先週、キリスト者は、主イエスこそ私たちの王であると告白する者であることを確認しました。とすると、キリスト者がこの問いかけには「私の心の王座には主イエスが座っておられる」と答えるのが正解です。

今日の箇所にも、主イエスは王であるという主題が流れています(26節、32節)。ある説教者がこの箇所の説教題に「十字架の王」とつけていました。32節では、祭司長、律法学者たちがこの王を「キリスト」と呼びます。彼らは、主イエスをあざけり、からかってそう言っているのですが、ユダヤ人の王、イスラエルの王とキリストとは同義語であると知っていたのです。

私たちキリスト者は、この十字架にかけられたお方こそ、私たちを救うキリスト、王であると信じ、告白します。今日の箇所は、主イエスが十字架にかけられた出来事のことです。十字架の主イエスを見つめていきましょう。

マルコ福音書には、主イエスの十字架の出来事、道行にかかわった二人の人の名前が記されています。ピラトとクレネ人シモンです。この二人は実に対照的です。かたや主イエスを十字架刑に決めた人、一方はその主イエスの十字架を背負わされた人です。シモンは自分から背負ったのではなく、無理矢理背負わされた人です。

対照的と言ったのは、ピラトは主イエスを信じたとは思えませんが、シモンは明らかに主イエスを信じた人、洗礼を受けたと思われるからです。

シモンは、アレキサンデルとルポスとの父と記されています。アレキサンデルについてはあまり知られていませんが、ルポスはローマ16:13のパウロの挨拶に出てきます。彼はローマの教会員でした。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、彼と私との母によろしく」と記されています。ルポスの母とはこのシモンの妻です。共にローマの教会員であったことがわかります。そして、ルポスと共にアレキサンデルの父と言われていますから、彼もまたキリスト者になったことを暗示しています。

シモンは、文字通り世界で始めて主イエスの十字架を背負ったキリスト者でした。マルコ8:34の主イエスの言葉を思い起こします。シモンは、十字架を背負って主イエスについて行ったのです。

後に彼は、あの主イエスの十字架の重さは、自分の罪の重さであった、自分のための十字架であった、と実感したと思います。私たちもまた、主イエスの十字架は私の罪のためであったと信じています。その十字架の重さは罪の重さであり、どれほど重かったでしょうか。シモンはこの重さを実感しているのです。

ローマの兵士たちは、ピラトの指示を受け、主イエスを受け取り、侮辱し、むちを打ち、十字架につけるためにゴルゴダに連れ出しました。そして、主イエスを十字架につけました。

その時の様子をマルコは記します。誰が何を取るかくじ引きで決めたうえでイエスの着物を分けた、と記します。詩篇22:18に記されている通りです。その1節は、主イエスが十字架の上で叫ばれた叫びの言葉です。

十字架の主イエスの前を通りゆく人や祭司長、律法学者が侮辱の言葉をかけています。これもまた詩篇22:7,8に記されている通りです。主イエスの十字架の出来事を貫いてこの詩篇の言葉が響いています。まさに、聖書に書いてある通り、主イエスは十字架につけられたのです。

新改訳3版では、28節が欄外に記されています。これは、写本の中にこの節があるものとないものとがあるということです。欄外にある28節の言葉は、詩篇ではなくイザヤ53章の言葉です。マルコ福音書にはもともとなかった言葉でした。この福音書を書き写していた人が、詩篇22篇の言葉通りであり、そしてイザヤ53章にある通りだと信じてその言葉書き込んだのではないか、と言われています。

主イエスは、聖書に書かれている通り、人々のあざけりの中、侮辱の中で死なれた。詩篇22篇にある通り、虫けらのように軽んじられて死なれた、と記したのです。

十字架刑は、とても残酷だったと言われます。十字架刑について書いてある参考書などを読むといやになるほどです。しかし、聖書はその残酷さには触れません。それは、私たちの目が主イエスに向くためです。主イエスの十字架の死は、聖書に書いてある通りであること、つまり、神の御意志が貫かれたことなのです。

聖書に書いてある通り。これはパウロがコリントの教会に書き送った手紙でも言っています。また、何よりも主イエスご自身が、ご自分の死と復活をお語りになった時にも言われたことです。

主イエスは、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死なれ、聖書に書いてある通り、よみがえられたのです。聖書に書いてある通りとは、前にも言いましたが、神の御意志であり、御計画だということです。神の御心です。

神の御計画とは、私たちを罪から救うということです。この御計画、ご意志が貫かれたのが、主イエスの十字架の死です。

神はこれほどに私たちを愛しておられるのです。神に見捨てられ、死ななければ赦されない罪を持っていたのに、私たちをではなく、主イエスをお見捨てになり、殺すことによって私たちを赦して下さったのです。

ゲッセマネでの主イエスの祈りを思い起こします。「私の願いではなく、父よ、御心のままを行って下さい」。この主イエスの祈りの通り、聖書に書かれたとおりに主イエスは十字架で死なれたのです。神の御意志が貫かれたのです。あなたは神に愛されています。私たちは神に愛されています。この愛を喜び、賛美し、立ち上がって行きましょう。