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先週、イースター礼拝を行いました。召天者を思い起こしつつ、復活の希望を新たに抱きました。復活の希望を主からいただきました。私たちの信仰は、復活信仰であることを改めて覚えました。
ローマ4:25を引用しました。私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるためによみがえられたとあります。私たちの罪のために死なれた、と告白します。今日、イースターの後の礼拝でありますが、改めて主イエスの十字架の道行きを読みます。
復活信仰はまた、十字架信仰です。私たちの救いは、主イエスの十字架の死と復活によります。今日も主イエスの十字架の道行きを読みます。
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主イエスの十字架の出来事を記している中で、最も多くの分量を用いているのが、主イエスの裁判のことです。14:53から始まります。
まず、大祭司の前での裁判です。そして今日の箇所のピラトの前での裁判です。14:64で、主イエスの死刑が決まりました。ただ、当時イスラエルは、ローマの支配のもとにありましたので、自分たちで死刑執行はできません。ローマの権力にお願いしないといけない。そこで、彼らはユダヤの総督であったピラトの所に主イエスを送ります。
主イエスは、ローマの権力の元で十字架にかけられたのです。しかし、このことは前から言っていることですが、この裁きは、神による裁きであったことを忘れてはいけません。主イエスは、私たちの罪のために死に渡されたのです。神の御計画です。神の御意志です。ピラトが神に用いられて、神の御計画が行われたのです。神に用いられるのは、なにも信仰の人ばかりではありません。
私たちは、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と主イエス・キリストへの信仰を告白します。それは、主イエスのお苦しみ、裁き、十字架の死が、ピラトの裁きによってであるが、それはまた神の裁きであると信じるということを意味しています。
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ピラトは主イエスを尋問します。「お前はユダヤ人の王か」。ユダヤ人の王ということは、大切な言葉です。これは救い主を意味することです。旧約においては、油注がれた王です。そして、特に詩篇や預言書では、神が王として告白されています。
このピラトの尋問は、大祭司が主イエスを尋問した言葉「お前は神の子、キリストか」と言ったことと同じことが起こっています。
主イエスはピラトにお答えになります。その通り。これを直訳すると「あなたがそう言っている」です。あなたがそう言っているだけだ、というのではなく、その通り、という意味です。
ピラトは皮肉を込めて尋ねたと思います。ピラトはこの後も、主イエスをユダヤ人の王と言っています(9節、12節)。主イエスは「それはあなたが言っていること、もうあなたがそう言っているではないか」と言っておられるのです。ローマの兵士たちも主イエスをからかって「ユダヤ人王、万歳」と言います。これらの言葉は、私たちキリスト者にとっては、真実の意味を持つようになりました。私たちの大切な信仰の告白の言葉となっているのです。
私たちはここで問われています。「あなたの王は誰と言うのか」。私たちは、この主イエスの裁判の出来事を読み、ここで主イエスと対話します。図らずもピラトは、主イエスを王と言います。神の御計画によってそう言っています。あなたは主イエスを誰と言いますか。これにどう答えるかによって私たちの生き方が決まります。
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主イエスこそ、私たちの王です。王である主イエスの言葉こそ、私たちを生かす力であり、希望であり、私たちを導くガイドラインです。
誰を王とするかによって私たちの歩みが決まります。自分の心を王とするか、願いか、思いか、それとも主イエスの言葉か。
祭司長たちに扇動された群衆は、十字架につけろ、殺せ、除けと叫びます。この群衆の中に私たちはいるのか、いないのか。ここでも主イエスと対話します。問われます。
まさか、私はそうは言わない、と言うでしょうか。誰を王とするのか、あなたの王は誰か、あなたの歩む道を導き、行く方向を決めるのは誰でしょうか。私たちを救い、どのような時でも支え、助け、生かす神の言葉である主イエスでしょうか。それとも自分の思いでしょうか。
私たちは「主イエスを殺せ」と口にして叫ばないかもしれませんが、主イエスの言葉をないがしろにしてはいないでしょうか。自分の思いを優先してはいないでしょうか。主イエスの言葉を殺していないでしょうか。
誰が主イエスを十字架につけたのでしょうか。ローマ4:25は、主イエスは私たちの罪のために死に渡された、と言います。主イエスが十字架にかけられたのは、私たちの罪のため、罪の身代わりです。主イエスを十字架につけたのは、私たちです。私たちの罪です。主イエスは、私たちのために神の裁かれたのです。
主イエスはこの後、何を尋ねられてもお答えになりません。黙ります。それは、この神の裁きを受け入れられたからです。ピラトの裁きを、群衆の裁きを、神の裁きとして受け入れられたのです。私たちの罪のために。
本来裁かれるべき私たちの罪を、私たちに代わって引き受けられたのです。そして私たちの罪を赦して下さったのです。
この主イエスこそ、私たちの王です。救い主です。
改めて今日、私たちは問われています。あなたの王は誰か。
私たちは、この問いに答え、告白します。私の王、私たちの王は主イエス・キリストです。私たちを生かし、支え、導き、行く先を示す王です。