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今日、私たちは、主イエスの十字架の姿を見ます。主イエスの十字架の前に立ちます。礼拝は、主イエスの十字架の前に立ち、十字架の主イエスを見上げ、見つめることです。礼拝堂に十字架が掲げられていることは。単なる象徴としてではなく、意味のあることです。この礼拝堂に入るたびに、私たちは十字架の前に立つのです。
ガラテヤの人たちが、パウロが宣べ伝えた福音、十字架につけられた主イエスを信じて救われ、教会を形成していきました。しかし、彼らは、パウロの後に来た教師たちの教えによって、十字架につけられた主イエスから離れてしまいそうになりました。十字架につけられた主イエス以外に救いがあるかのように考えたのです。
パウロはそのようなガラテヤの教会の人たちに改めて語ります。私たちが救われたのは、主イエスの十字架によることを(3:1)。さらに3:13で十字架につけられた主イエスを語ります。キリストはわれらのために呪われたものとなった、と言います。それ故に私たちは神の呪いから救われたと語るのです。
今日、私たちは主イエスの十字架の前に立ちます。あの百人隊長のように。
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マルコ福音書は、神の子イエス・キリストの福音のはじめと始まります。これから書く福音は、神の子イエス・キリストの福音だというのです。その福音は、今日の箇所に至って明らかになります。ここに向かって書かれたのです。ローマの兵士であり、その百人ほどを束ねる隊長の告白によって明らかになるのです。「この人こそ、まことに神の子」(39節)。彼は、主イエスの十字架の真正面に立ってこの告白をします。それも、主イエスの叫びを真正面に立って聞いてこの告白をしました。
この十字架の姿こそ、神の子イエス・キリストのお姿です。マルコが書き記した福音です。この福音こそ、私たちを救う福音です。救いとは、主イエスの十字架の上での叫びにそれを知るのです。
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先週も言ったことですが、十字架刑はとても残酷でした。パッションという映画があります。主イエスのお苦しみをこれでもかと残酷に描いています。目をそむけたくなるような場面が続きます。
しかし、マルコはこの十字架刑がどんなに残酷であったかを書いていません。パウロも主イエスの十字架の死について、残酷な描写はしていません。なぜ書かなかったのでしょう。わかりきっていることだからでしょうか。
先週も言いましたが、それは、主イエスの十字架の死が、神の御計画であり、御意思であったということを書き記すためだったからです。これこそが神の子のお姿であることを書き記すことが主題だったからです。
神の御意思が貫かれたことをイザヤは「主の御腕は誰に現れたのか」(53;1)と言い「彼を砕いて、痛めることは主の御心であった」(53:10)と預言します。イザヤ53章は、主イエスの十字架の預言です。主の御腕は、主イエスの十字架に現れたのです。主イエスを砕き、痛めることは、主の御心であったのです。
ことさらに残酷な描写はありませんが、マルコはこの主イエスの十字架にこそ、神の御意思、御心、御腕が表されているのだと書いているのです。
残酷な描写はない、と言いましたが、もし残酷というのであれば、この主イエスの叫びほど、残酷さを表している言葉はないでしょう。
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わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのか。福音書は、主イエスが言われた言葉をアラム語でそのまま書き残しました。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。
これは詩篇22:1の言葉です。主イエスの十字架の出来事は、この詩篇22編の言葉通りに起こったことでした。この1節の叫びこそが、主イエスの十字架のお姿を表していること、意味していることです。神は主イエスをお見捨てになった。神に見捨てられることです。これほどの絶望はありません。ここに私たちの罪の姿、現実が明らかにされています。
罪とは、神に見捨てられるほどのことです。我々が十字架の前に立つ時、このことを覚えなくてはなりません。この主イエスの叫びを聞かずして、私たちが罪から救われたことを知ることはできません。
主イエスは神に見捨てられたのです。主イエスの死は、人々のあざけりの中で死んだというだけではありません。誰よりも何よりも神に見捨てられた死であったのです。これは主イエスがまことに人となられたということです。私たちと同じ人となられたことを意味するのです。そして、私たちが神に見捨てられるということが、どういうことかをお示しなったのです。神に見捨てられることがどれほど恐ろしく、残酷であったかをお示しになったのです。
本来なら、私たちが神に見捨てられるはずでした。罪にまみれていたのです。私たちはそのことに気づかずにいたのです。呪われたものとなっていたのです。呪いとは神に見捨てられることです。主イエスの十字架の死は、私たちのために呪われたものとなって下さったことです。私たちに代わって、神に見捨てられたのです。
だから、私たちはもはや神に見捨てられることはありません。救いとは、神に見捨てられることからの救いです。神に見捨てられることほどの絶望はありません。しかし、私たちはこれほどの絶望を持つことはありません。神に見捨てられることから救われたからです。
私たちは今日、主イエスの十字架の前に立っています。真正面に立っています。あの百人隊長のように。そして、告白します。私たちを神に見捨てられる絶望から救って下さったこのお方こそ、神の子キリストであると。
主イエスの十字架こそ神の愛の現れです。この愛に応えて生きる者でありたいと決心したいのです。