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私たちはマルコ福音書を丁寧に読んできました。そして今日、最後の章に入ります。今日は、主イエスの復活の出来事を記す箇所です。
私たちは、毎週日曜日の朝に礼拝します。それは、週の初めの日に主イエスが甦られたからです。今日は復活の日、イースターではありませんが、主の日はいつも主イエスの復活を祝う日です。
初めのころの教会は、日曜日の朝早く、日の出前に集まり、日の出と共に礼拝を始めたそうです。復活を象徴するものとして日の出る方、東を向いて礼拝したそうです。
東を向くということがオリエンテーションの言葉の元になっていると聞いたことがあります。オリエンテーションは正しいほうに向くようにとなされます。まさに礼拝は、私たちが正しいほうを向くようになされます。そしてそれを日曜日にするのは、主イエスの死と復活を記念し、その恵みにあずかることです。正しいほうを向いて生きることなのです。
礼拝していきましょう。
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主イエスが十字架で死なれたのは、安息日の始まる直前でした。アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体の引き取りをピラトに願い出て認められたので、急いで主イエスの遺体を自分の墓の中に納めました。その様子を見ていた女性たちがいました。彼女たちは、主イエスの十字架で死なれた様子も見ていました(15:42~47)。
この女性たちの内、三人が、安息日が終わってすぐに日の出と共に墓に向かいました。墓の入口は石でふさがれていました。彼女たちはそれを知ってか、あるいは途中で気が付いたか、わかっていたとしても何とかして主イエスの体に香油を塗ろうと墓に行きます。
まったくの向こう見ずの行動です。分析上手な人から言わせれば、愚かなことと言うかもしれません。しかし、彼女たちの行動は、主イエスの栄光の出来事と出会うこととなります。かつて見たこともない神の御業を見るのです。
無茶苦茶な行動は控えるべきですが、時に私たちは知性的な判断で、これはダメだと決めつけて行動しないことがあります。それを信仰においてもそうすることがあります。しかし、神の御業は、私たちのさかしらな思いを超えるのです。神に期待するのではなく、人の能力、可能性で判断してしまうことがあります。気をつけたいと思います。
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向こう見ずな行動に出た彼女たちも、主イエスの復活の出来事、彼女たちが見、そして聞いた出来事を受け入れることできませんでした。当然のことです。彼女たちが不信仰だったからでしょうか。確かに、彼女たちの行動は信仰によるものではなかったでしょう。だから、彼女たちはこの出来事に怖くなって、誰にも何も言いませんでした。
彼女たちが墓に着いた時、墓の入口の石は転がしてありました。これだけでも驚きです。さらに彼女たちを驚かせたのは、墓の中に入った時、そこに真っ白な長い服を着た青年が立っていたことです。主イエスの遺体があると思っていた所に人がいたのです。
またさらに彼女たちを驚かせ、恐れさせたのはこの青年の言葉です。「驚くな。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方は甦られた。ここにはおられない」(6,7節)。
この言葉が墓の中に響きました。彼女たちを驚かせ、恐れさせたこの言葉こそ、墓の中に響いたこの言葉こそ、マルコが記す福音です。私たちが信仰をもって聞きとるべき福音の言葉です。
前回、主イエスは私たちのために死なれ、葬られたとお話ししました。それは私たちのための死であり、私たちと歩みをいっしょにして下さったこと、墓の中に葬られたことだと言いました。
その墓から住イエスが甦られた。この墓の中に響いた言葉こそが福音の言葉です。そしてこの福音の言葉こそが、主イエスが死から甦られたように、私たちも甦るという希望に生かす言葉であり、私たちを救う言葉、福音の言葉なのです。それが、6,7節の言葉です。あなたたちが探している十字架につけられ、葬られた主イエスは甦られたのだ。ごらんなさい、ここにあの方が納められた所だ。ここからよみがえられたのだ。
マルコは、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始めます。十字架の死と復活の出来事にこそ、神の子イエス・キリストが言い表されています。神の子とは、甦られた方、ということです。この方こそが私たちを死から救うお方、神の子キリストである、というのです。
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この女性たちは怖くなって、震えあがって誰にも何も言わなかった、ということでこの福音書は終わっています。9節以降は亀甲括弧に入れられています。これは、マルコ福音書には本来含まれていなかったと思われています。ですから、本来は、8節で終わっているということです。不思議な終わり方です。
しかし、私たちは、ここで終わっていないということを知っています。この後、この女性たちは、逃げて隠れている弟子たち、ペテロに主イエスが復活されたことを伝えたはずです。ですから、9節以降が記されたのです。また、私たちの所まで、この主イエスの復活の出来事が伝えられたのです。
この福音書を読んだ教会の人たち=キリスト者たちは、主イエスが死から甦られたことを信じました。私たちもそうです。
墓の中に響いた言葉、福音の言葉こそ、私たちが信じ、救われた言葉です。私たちを復活の希望に生かす言葉です。私たちを正しいほうに向かって生かす言葉です。
驚いてはいけない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのだろう。あの方は甦られた。ここにはおられない。