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マルコ福音書を読み終えると思いましたが、もう一回、必要です。
前回、主イエスが弟子たちの頑なな心、不信仰をお責めになったということまで取り継ぎました。お責めになっておしまいではありません。15節以下の言葉が続いています。今日は、ここに目を留めます。
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9節以下は、後の教会の加筆だと言いましたが、単なる加筆ではありません。ここに私たちの心を揺さぶる出来事、物語があります。ある人はこの箇所を「神の祝福の物語」と呼びます。
主イエスが甦られたのは、私たちの頑なな心の中に立たれたことです。それは、不信仰で頑なな心を新しくし、神の祝福の中に招き入れるためです。この箇所は、弟子たちの心を揺さぶり、信仰を与え立ち上がらせた主イエスの祝福の物語です。その記録です。
その言葉が15節から始まるのです。全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。そう始まります。
この言葉は、マタイ28:19,20にも語られている言葉です。主イエスの大宣教命令と言われます。主イエスはこのことを弟子たちに、教会にお委ねになりました。福音を伝えるということの意味がここに語られます。「行きなさい」、「弟子としなさい」、「洗礼を授けなさい」。このことは、今日の主イエスの言葉の良い注解です。
福音宣教と洗礼を授けることとは切り離せません。ですから、今日の箇所で、福音を伝えることと、信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われる、ということとが合わせて語られているのです。これは聖書の大命題です。私たちの福音宣教の大命題です。私たちはこのことを主イエスから託され、委ねられているのです。
主イエスの復活のことを聞いても信じられなかった弟子たち、死の力が まさっているのではないかというあきらめの心、頑なな心を持って希望を持てない弟子たち、そして私たちの心の中に立って主イエスはこの言葉をお語りになるのです。お命じになるのです。
私たちが主イエスを信じて洗礼を受けたということは、死の力を打ち破る復活の力に生きることを決心したことです。復活の力、それは希望の力です。
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信じられなかった弟子たちに主イエスは言われます。信じてバプテスマを受ける者は救われます。
繰り返しますが、主イエスはこの言葉を私たちに託されたのです。お委ねになったのです。そして、この命令には約束が伴っています。ここに私たちの希望があります。
「信じる者には次のようなしるしが伴います」と言われます。主イエスの名によって悪霊を追い出すと言われます。エクソシストのような現象が起こるというのではありません。死の力の虜になっている人たちを解き放ち、希望を持てないでいる人たちに希望を与えることです。これが福音を伝えることの意味です。
主イエスの名にその力があるのです。死に打ち勝ち、絶望に打ち勝たれた主イエスの復活には力があるのです。信じてバプテスマを受けた私たちには、その力が与えられているのです。希望が与えられているのです。
さらに主イエスは言われます。新しい言葉を語る。私たちペンテコステ派のものにとっては、これを「異言」と捉えることがあります。それはその通りです。聖霊の働きがあることを意味しています。
それと共にもう一つの 捉え方があります。それは、私たちの語る言葉が新しくなるということです。主イエスを信じる前とは違う言葉を語るということです。死の力の虜になっていた言葉から、希望を語る言葉になるのです。この新しさとは、Ⅱコリント5:17にある新しさです。誰でもキリストにあるものは、新しく造られた者です。新しく造られた者の語る言葉は新しくなるのです。希望を語るのです。慰めを語るのです。福音を語るのです。キリストを語るのです。
語る者は、語る言葉に生き、生かされます。これは牧師として、説教者としての私の経験です。
さらに、信じてバプテスマを受けた者の舌は、神をほめたたえる賛美の歌を歌います。祝福を告げ、祝福を語る者になります。これによって福音を伝えるのです。
主イエスの命令は、約束と一体となっています。私たちは約束を信じて主イエスに従います。そこでは私たちが思ってもみなかったこと、これまで経験したことのない新しいことが起こります。イザヤ43:19にある通りです。
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信じる者に伴うしるしに、不思議な表現があります。ヘビを掴んでも、毒を飲んでも害を受けない。だからと言って試しにヘビを掴んだり、毒を飲んだりする必要はありません。
ヘビに取り囲まれ、毒を飲まされるような出来事があっても、ということです。窮地に陥ってもということです。
初代のころの教会は、さまざまな軌跡を経験しました。迫害の激しい中でも福音を伝えました。そして信じてバプテスマを受ける人たちが起こされました。これは、信じる者に伴うしるしがあったことの証です。
パウロもまたⅡコリント11:23~27で何度も窮地に陥ったことを述べています。それを自慢しているのでも、ひけらかしているのでもありません。このことを通して、もし誇るのなら自分の弱さを誇ると言っているのです。自分の中に現わされるキリストの力を誇ると言います。誇るとは、喜ぶこと、そして語ることです。
私たちの福音宣教とは、キリストの力によって生かされていること、復活の力、命に生かされていることを喜ぶことです。キリストの死と復活によって与えられた新しい命、復活の命を喜ぶことです。
今日、聖餐の恵みにあずかります。キリストの死と復活によって与えられた命、希望に生きることを喜ぶのが、聖餐を受ける意味です。