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7月20日説教要旨 「主イエス―我らと共に」 マルコ16:19~20

今日でマルコ福音書を読み終えます。一つの書を読み終えるということの達成感があります。

特に、私がこの講壇からあと何年、このように聖書の言葉、神の言葉をと取り継ぐことができるのかということを思う時、一つの書を読み終えることの充実感を覚えます。

充実感や達成感は、終わったということと共にここからまた新しく歩み始めるということでもあります。それも「主イエスと共に」です。

私たちの教会は、今年創立70周年を迎えました。これまでの歩みは、主エスと共に歩んだ歴史でした。いや、主イエスが共に歩んで下さった歴史でした。これで終わったのではありません。70年を振り返ることは、ここからまた新たに歩み始めることです。主イエスと共に、主イエスが共に。

このような思いを持ってマルコ福音書の最後の所を読みます。そして、力を受けて立ち上がり、新しく歩み始めます。

私たちを立ち上がらせ、新しく歩ませて下さる言葉が今日の箇所にはあります。そしてここに、私たちの信仰の押さえどころ、急所があります。

主イエスは、天に挙げられ、神の右の座に着かれた。ここには「主イエスは」と記されています。4つの福音書で「主イエス」と記されているのは、この箇所とルカにあるだけです。

私は、説教要旨には「主イエス」と記します。どうでも良いことではなく、これは私たちにとって誰が「主」なのかを言い表していることです。

この箇所で「主イエス」と呼んでいるのは、天に挙げられ、神の右の座に着かれたお方という意味を持っています。私たちの主は、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降られ、三日目によみがえって後、天に挙げられ、神の右の座にお着きなったお方です。ここに主イエスが私たちの救い主であることが言い表されています。この告白と私たちの生活とどのような関係があるのでしょうか。主イエスは、神の右の座に着かれて何をしておられるのでしょうか。

その一つが、20節にある言葉です。主は彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた。

彼らとは、弟子たちです。そしてそれに続く私たちキリスト者です。主は私たちと共に働かれる、と言います。私たちと主が共におられて、一緒に行動して下さる。生きて下さる。信仰の確かなこと、御言葉の確かなことをあかしして下さる。このことはとても重要なことです。

神の右の座に着いておられる主イエスは、ご自身が語られた言葉の確かなことをお示しなっているのです。私たちを通して、私たちの内に、私たちにです。ここに私たちキリスト者のアイデンティティがあります。

私たちキリスト者は、主イエスと共に生きる者です。だから、自分のことをキリスト者と呼び、人からもそう呼ばれるのです。元々は陰口です。どこか蔑んだ呼び方でした。しかし、それを自分たちのアイデンティティとしたのです。その通り、私は主イエス・キリストと共に生きる者、いや主イエス・キリストがいっしょに生きて下さっている者なのだ、と言い表したのです。これが私たちキリスト者です。

これらのことを別の追加分では、主イエスご自身が、彼ら=弟子たちそして私たち=を通して朽ちることのない永遠の救いの訪れを広められた、と表現します。福音がこれほどに広められたことは主ご自身がなされたことです。そのために私たちは用いられているのです。

天に昇り、神の右の座に着かれた主イエスは、もう一人の助け主である聖霊を私たちに遣わして下さり、その聖霊によって私たちと共におられて、共に働かれ、私たちを通してご自分の御業をなさっているのです。主イエスの死と復活により、朽ちることのない永遠の救いの知らせを伝えるという御業をなさっておられるのです。聖霊によって主イエスは私たちと共におられ、共に働かれておられるのです。

どうもそれを感じられない、という人もいるかもしれません。しかし、私たちの信仰は、感じることではなく、信じることです。ここに記されていることを信じることです。前回、主の約束を信じることが私たちの信仰であると言いました。

主イエスは、私たちと共に働き、私たちを通して福音を伝え、御言葉の確かなことをお示しになるのです。そう約束しておられます。それを信じるのです。だから、つたなく、弱く、足りない私のような者の信仰生活であっても、主イエスが共に働いて下さっていると信じられるのです。神の右の座に着いておられる主イエスは、私たちと共に歩んで下さっている。だから、私たちも主イエスと共に歩むことができるのです。

そしてもう一つ、覚えておきたいことは、主イエスは神の右の座に着いて、私たちのためにとりなしておられるということです。ローマ8:34。また8:26では、聖霊が私たちのためにとりなしておられることが記されています。主イエスがとりなして下さり、聖霊がとりなして下さる。これほど心強いことはありません。

ヘブル12:2には、この主イエスから目を離してはならない、と勧められています。また、パウロはコロサイ3:1で、あなたがたがキリストと共に甦らされたのなら、上にあるものを求めなさい、そこにはキリストが神の右の座を占めておられる、と言います。

キリストと共に死んで、キリストと共によみがえらされた私たちキリスト者は、上にあるものを求めるのです。そこにはキリストが神の右の座におられるのです。このキリストを見つめて生きるのです。私たちの目をキリストから引き離す悪の働きがあります。しかし、この朝、改めて神の右の座におられ、私たちと共に働かれ、共に歩まれる主イエスを、私たちのためにとりなしておられる主イエスを見つめて歩みましょう。