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先週の平和祈念礼拝で取り次いだ箇所からさらに恵みを汲み取っていきます。先週、神に受け入れられるものとして、自分の体を神に捧げるということから、平和のために仕えるという一点に絞ってお話ししました。今日は、先週と同じことにも触れますが、そこからさらに恵みを深くくみ取っていきます。
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2節は、この世と調子を合わせてはならない、と始まります。同じ形になるな、ということです。誰か尊敬する人がいると、その人と同じ格好をすることがあります。生き方、ファッション、姿かたちを似せようとします。これはうわべだけではなく、心というか精神まで似てきます。
この世と同じ形になるな、という「この世」は、時間的な意味を持っている言葉です。この時代、世代とも訳せる言葉です。その時代と同じ形になるなとは、その価値観を絶対視するなということです。
1節で「神の憐れみのゆえに」とパウロは言います。それは、神の愛、恵みの中で生かされていることを知っている者として、ということです。私たちは、この世から呼び出され、召された者です。この世にあるものによって生きるのではなく、神の恵み、憐れみ、愛を信じて生きる者となりました。
神の恵みと憐れみ、愛の支配の中で生きる者となりました。この世の形から神の恵みを受けた者としての形に変えられたのです。どんな時でも神を信じ、神に期待して生きる者に変えられたのです。
だから、この時代がもたらす満足に同化することなく、同じ形になるのではなく、神に受け入れられること=喜ばれることを求めて生きるのです。
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この時代の流れの一つに、AIの進化やSNSなどがあると思います。ちょっと前までマスコミがそうだったように、これらが大きな影響を持っています。承認欲求などという言葉が人々の心をくすぐります。もちろん、他の人から認められることが大切ではありますが、それに振り回されることがあります。そしてそれを「神」としてしまうことがあります。
この世と同じ形になるとは、この世を「神」にすることです。この世の流れを神とするような誘惑に囲まれています。そのような流れの中で、私たちの福音の言葉、神の言葉が無力に思えたりもします。
しかし、私たちは、その形と同じになってはならないのです。同じ形にならないためにも、神の御心が何かを知るために、繰り返し神の御言葉、聖書を読み、聞くのです。
私が礼拝で使う聖書翻訳は、新改訳第3版です。「心の一新によって自分を変えなさい」と訳します。他の訳を見ると、ここは「自分を変えていただきなさい」と受け身の形で訳されます。ある聖書学者は、ここは「自分を変えなさい」と訳すべきと言います。どちらの訳も可能です。
心の一新によって、とありますから、これは自分のすることです。心を新たにするとは、悔い改めて、ということでもあります。
先ほど言ったように、私たちは時にこの世の流れを神とすることがあります。この世の姿形を神とすることがあります。それを悔い改めるのです。
悔い改めるとは、向きを変えることです。心を新たにすることです。思いを新たにし、自分は正しいと思っているところから視点を変え、考えを変えることです。その方向を、神の御言葉の示す方に向くということです。
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口語訳は、「この世と妥協してはならない」と訳します。このことについてある説教者がこう言います。
私たちは自分の仕事、自分の事業の順調であることなど、目に見えるところだけでいつも希望を確保しておきたいと願う。それは人間の自然の感情。しかし、やはりそれは一人ひとりの生活の中に過ちを生みやすく、教会の過ちさえも生みかねない。
妥協は知らないうちに起こります。気をつけたいと思います。そこで私たちは祈ります。何が神に喜ばれることか、心を新たにして自分を変え、選んでいくことができるように、その目が与えられるように祈り求めるのです。
神に喜ばれることより、自分の仕事や健康などが順調であることに希望を持っているとするなら、私たちはこの世と妥協することになります。そこでは、希望は失せるのです。
私たちのなすべき礼拝=神を信じ、神をあがめ、礼拝の生活をするには、心を新たにして、向きを変え、自分を変えていくことです。変わることを恐れてはいけません。
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私たちキリスト者は、新しく変えられた者です。神は私たちを愛して下さっています。この世と妥協しがちな私たちを神はそのままで愛して下さっています。しかし、そのままで良いのではありません。心を新たにして変えていく必要があります。
変えること、変わることを恐れてはなりません、誰でもこだわりというのがあります。意地もあります。それで自分の義を立てようとします。しかし、自分の義は、神の義を全うしません。自分を変えること、変えられることを恐れてはいけません。
主は私たちを変えて下さいます。私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。
自分の頑張りで自分を変えていくのではありません。心を変えるのではありません。だから、他の翻訳では「変えられなさい、変えていただきなさい」と訳すのです。
私たちは心を新たにすることで変えられるのです。私たちは変えられる必要があります。変わる必要があります。神に受け入れられ、喜ばれるものとなる必要があるのです。
人に好かれ、気に入られるようになる必要はない、とは言いません。ローマ14:18にあるように、キリストに仕える者は、神に喜ばれ、人にも受け入れられるのです。神に喜ばれる者として、変わることを恐れず、変えられていきましょう。