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8月10日説教要旨 平和祈念礼拝 「神の御思い ―平和のために仕える」 ローマ12:2

いつも8月第二主日を平和祈念礼拝としています。教団では、「信教の自由を守る日」としています。ある方が「信仰の自由を守る日」ではないですか、と言っていました。その通りだと思います。

太平洋戦争中、キリスト教信仰は敵国宗教と言われ、踏みにじられました。礼拝は、君が代を歌い、宮城遥拝(皇居に向かって拝礼すること)をしてからではないと始められませんでした。憲兵が礼拝を監視していました。このことに従わない教会は取り締まられ、牧師は投獄されました。

終戦と共に自由に礼拝ができるようになりました。まさに「信仰の自由」を得たのです。このことを覚えるために、終戦記念日に近い日曜日に、信仰の自由が守られるように、平和のために祈る礼拝を行っています。

特に最近の世界の状況を見る時、各地で戦争があることに心を痛めます。自国ファーストなどという考えが色濃く出てきていて、差別や分断が起こっています。先の参議院選挙でも、日本人ファーストなどと言っていた政党が議席を増やしました。

この状況に、あの戦時中のことが思い起こさせられます。再び信仰の自由を奪われることが起こりはしないか。私たちは祈り、平和のために仕えていきたいと強く思います。

今日の箇所は、2節です。この世と調子を合わせてはいけない、と勧められます。私たちの霊的な礼拝ということの具体的な勧めです。1節と2節には共通する言葉があります。「神に受け入れられる」という言葉です。このことはとても重要です。

霊的な礼拝とは、理にかなったこと、ふさわしい礼拝ということです。神の憐れみによって救われた者としてふさわしい、理にかなった歩みは、神に受け入れられること=神に喜ばれる歩みをすることです。それが自分の体を神に捧げることであり、その具体的なことが、この世と調子を合わせないことです。

調子を合わせる、と訳されている言葉は、同じ形になる、という意味です。また、自分を変えなさいとありますが、これは形を変えなさい、という意味です。この世と同じ形にならず、心を新しくして自分の形を変えなさい、と言うのです。

神に受け入れられること、喜ばれることについて、いろいろと適用できると思いますが、今日は、この一点に絞ります。それは、平和を作ること、平和のために仕えることです。

先の大戦、太平洋戦争の時を思い起こします。キリスト教会は、あの時代の流れに沿って戦争に加担していきました。あの時代、世間の流れ、形に抗うことは大変なことで、難しいことだったと思います。その中でも一部のキリスト者たちは抵抗しました。教会としても、個人的にもです。

少年Hという小説を書いた妹尾かっぱという人がいます。彼はキリスト者の両親のもとに生まれます。両親は、戦争に反対でした。そのために、仕事でも苦労したようです。戦後は、貧しい中でも、食事に困っている人がいたら、自分たちの食料を分けていたということでした。

かっぱさん本人は、教会に通っていましたが、中学生の時、戦勝祈願をしていた女性信者を見て教会に行かなくなったということです。つまずいたのでしょう。

止揚学園という知的障害児の施設を始めた福井達雨という人のお母様も戦争に反対していました。そのために投獄されました。達雨さんは少年時代、獄中の母に着替えを届けに行ったことを述懐しています。

その他にも多くのキリスト者があの時代と同じ形にならず、抗いました。難しいことだったと思います。

当時の教会の在り方を批判することは簡単です。しかし、私たちもその時代と同じ形になること、調子を合わせ、歩調を合わせることの可能性があることを覚えます。弱さゆえに間違うこともあります。歩調を合わせ、同じ形になることがあります。

そこで私たちは祈ります。この世と同じ形にならないように、心を新たにして祈り求めます。何が神に喜ばれることか、神の御旨=御思いは何か。心を新たして造り変えられるように、そして神の御思いを選んでいくことを、その目が与えられることを求めます。

神の御心、それは、平和を作ることです。平和のために仕えることです。これが今日の主題です。それは主イエスの言葉からも明らかです。

マタイ5:9に語られている通りです。マタイ5章には山上の説教と言われる主イエスの言葉が記されています。あなたがたは幸いである、と語られている言葉です。5:9は、平和をつくる者は幸いだ、と言われます。この前後は、平和に生きる者、平和のために仕える者の幸いを教えておられると読むこともできます。柔和な者、義に生きる者、憐れみ深い者、心の清い者、義のために迫害されている者の幸いです。

私たちはこの招き、教えに従います。平和のために祈ります。平和をそこに造るために生きます。平和のために仕えることに心を砕きます。神がそれを私たちに求めておられるからです。

アッシジのフランチェスコの平和の祈り、平和を求める祈りにあるように、私たちも祈ります。私たちが平和を求めて祈るのは、私たちの神が平和の神であるからです。私たちは、キリストによって打ち立てられた神との平和、平安を受けている者だからです。

神の深く豊かな憐れみ、愛によって神との平和を与えられている私たちは、平和のために仕えて生きるのです。争いのある所に平和を、私たちを平和の道具として用いて下さい。

この世と調子を合わせ、歩調を合わせることに抗い、神の喜ばれることが何かを、心を新たにして、造り変えられていきたい。神の御思いに沿って生きていきたい。神の御思いを知ることを求め、平和のために仕えていきましょう。