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先週の週報に今日の説教予告を載せました。その時はまったく気が付かなかったのですが、「偽りの愛に生きる」という説教題になっていました。実は「偽りのない愛に生きる」としたかったのです。大変な間違いをしました。お詫びいたします。
今日の説教の結論を先走って言いますが、私たちは偽りのない神の愛によって愛されていること、それ故に私たちは偽りのない愛に生きることができる、ということです。
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前回、私たち一人ひとりには神の恵みに従って賜物としての務めが与えられていると言いました。救われた者としてキリストの体である教会に加えられ、仕えるために賜物が、務めが与えられています。その務めは恵みに務めであることを知りました。この務めに、すべてのキリスト者が召されています。
このように語ってきてパウロは、9節から愛について語ります。愛には偽りがあってはならない、と言います。
このような語り方は、パウロの手紙の特徴でもあります。それは、Ⅰコリント12章とその後の13章の語り方に似ています。12章において、キリストの体を形づくる私たちはその体の一部、器官であると言います。そしてより優れた賜物を熱心に求めなさい、と言って、その優れた道を示そうと言います。そして13章で愛を語ります。
教会を形づくるのに必要なのは愛であることは、論を俟ちません。しかし、これはわかりきっていることかというとそうでもありません。わかっているつもりでも、そこに愛はあるのか、と言われるようなことが起こります。
Ⅰコリント12章、13章でもキリストの体である教会を形づくるために賜物が与えられていること、そしてそれが愛をもって用いられることを語ります。キリストの体である教会を建て上げ、形づくることとして愛が語られるのです。
13:1~3で言います。たとえ異言で祈り、語ったとしても愛がないならやかましいだけ。預言の賜物を持っていても、完全な信仰を持っていても愛がないなら無意味だ。全財産を貧しい人に分け与えたとしても、愛がないなら何の役にも立たない。
キリストの体を形づくるために、そして私たち一人ひとりの信仰を形づくるために与えられている恵みの賜物を用いるのに重要なのは愛です。
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パウロは、このローマ書で愛について語る時、11章まではほとんど神の愛について語っています。神が私たちをキリストにおいて愛して下さった。私たちは神に愛されている、ということを語ってきました。
そしてこの12章で私たちの愛を語ります。その愛には偽りがあってはならない、というのです。偽りがあってはならないという言葉は、愛は偽らない、うそを言わない、演技をしない、という意味です。偽善とは、演技をすることです。役者の語源です。
恵みによって与えられた賜物としての務めを果たすのに、役を演じるようにしてはいけない、というのです。なぜなら、神は主イエス・キリストによって私たちを愛するのに、真剣に、真実に愛して下さったからです。11章までに述べてきた神の愛は、本音の愛です。偽りのない、偽ることのない愛です。真実の愛です。
偽りのない神の愛によって愛され、救われ、新しく生かされている私たち、この真実の愛を知った私たちは、偽りのない愛に生きることができるのです。神の愛に応えて生きる私たちには、偽りはなくなるのです。
とは言うものの、自分はどうなのだろう。偽っていないだろうか、演じていないだろうか。時に自分の愛のなさに愕然とします。教会の務めは、辛く苦しいことであったとしても、喜びをもって最善を尽くして果たすものです。主に仕えることとして行います。主を愛することとして行うのだけれど、できているだろうか。演じていないだろうか。偽っていないだろうか。
しかし、自分を省みて愛がないと思っていたとしても、偽っているのでは、と思っていたとして、そこで立ち止まり、何もしないで動かないのではありません。
そういうわけですから、神の憐れみによって、と12:1で勧められている言葉を聞き取りなおします。偽りのない神の真実な愛を知った者として、その愛に応えて自分の体を神に捧げるのです。神が私たちを愛して、すべてを与えて下さっているのですから、その愛に応える愛には、偽りの入る余地はないのです。信仰に応じて語り、喜びをもって惜しみなく分け与えるという愛の賜物としての務めには、偽りの入る余地はないのです。
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偽りのない愛について、悪を憎み、善に親しむ、と言います。悪を憎み退け、善には親しみむすび、と新共同訳は訳します。その具体的なこととして10節から述べます。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合え、と言います。教会の仲間を兄弟として心からやさしく、親身になって接しなさい、ということです。実に具体的です。
あの人とはあまり関わりたくないので、そこは大人としてふるまうかと演じるのでは、ダメだ、というのです。愛は偽らないのです。神の愛に立ち、神の愛に応えて兄弟愛をもって互いに愛するのです。
私たちは互いに神の真実の愛によって愛され、救われた者同士です。私たちのなすべき霊的な礼拝、神を神として崇め、信じて生きる生き方は、教会の仲間を兄弟として互いに心優しく接することです。
難しい、できないと思うなら、常に慎み深く、謙遜であるべきです。できない自分を認め、主の御力に頼るのです。そして愛することを志すのです。
神の偽りのない愛によって救われ、新しく生かされた者として、神の憐れみによって生かされている者として偽りのない愛に生きることができるのです。