・
何人かの方から先週の説教題について「何か意図があってあのような題にしたと思った」と言われました。いえいえ、そんな責めた説教はしません。説教は独創的なことを言うことではありません。何度も語られていること、同じことを語ります。いつも聞き慣れている言葉、福音の言葉を繰り返して語ります。それが説教です。
同じ言葉、福音の言葉を新しい思いで聞き取ります。「わかっている」とは言わず「アーメン」と応答します。そしてそれを喜びとします。
パウロは、ローマの教会に行って福音を伝えたいと願っていると言いました。すでに信じて信仰を持っているローマの教会の人たちとその福音の恵みを分かち合い、励まし合い、御霊の賜物を分け合いたいと願っているというのです(1:9~13)。すでに知っていることを語り、その恵みに生かされたいということです。
私たちも毎週、同じことを聞きます。特に愛について、良く知っていることを聞きます。今日の箇所に記されていることはよく知っていることです。しかし、そのよく知っている福音の言葉、愛の言葉を新たな心、思いで聞き、それに生きようと決心します。神に喜ばれる者として、自分の体を神に捧げることとしてです。喜びをもって聞いていきましょう。
・
先週、愛には偽りがあってはならないと聞きました。私たちキリスト者は、偽りのない真実の神の愛によって愛され、救われていることを知った者です。そしてその愛に応えて生きます。神を愛し、隣人を愛して生きます。
その愛することの具体的なこととして、教会の仲間を兄弟として愛するようにとの言葉を読み、聞きました。今日の箇所は、兄弟愛に始まり旅人愛の勧めで閉じられます。これらのことは、愛には偽りがあってはならないと言ったすぐ後の「悪を憎み、善に親しむ」ということの具体的な姿です。これが真実の神の愛に応えて生きる姿です。
「憎む」というこの言葉は、憎むという言葉を強調した言葉です。憎むというだけでも強烈な印書を持ちますが、さらにそれを強調した言葉です。口語訳は「憎み退け」と訳します。
善には親しみ、ということは、善とぴったりとくっつくことです。離れないことです。善とは単に良いことではなく、前回との関連で言えば、神に愛されていることを覚えることです。神に愛されていることから離れないことです。
私たちは、時に苦しいことや悲しいこと、どうしても受け入れらないような出来事に遭うと、神に愛されていることから目がそれます。ヘブル12:2にイエスから目を離すな、と勧められています。それは主イエスの愛から目を離すなということです。そしてそれは、ヨハネ15:9で主イエスが「わたしの愛の中に留まれ」と言っておられることです。神の愛の中に留まること、離れないことが「善に親しむ」ことです。
・
10節の兄弟愛について見ます。ここに悪を憎み、善に親しむことの具体的な姿を見ます。尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい、と言います。私たちは、誰かを尊敬するのに何らかの基準を持ちます。学歴とか社会的地位とか経歴とか、いろいろと値踏みします。
しかし、そのような基準についてはここでは何も言いません。神に愛されている者として、兄弟を愛することとしてその人を自分よりまさっていると思いなさいというのです。ある人は「相手に先んじて尊敬しなさい」と訳します。互いに尊敬しあう時、相手よりも先に尊敬する、ということです。
これは、私たち神に愛されている者の人を見る目は違うということです。誰でもキリストにあるなら新しく造られた者として見るのです(Ⅱコリント5:16,17)。それが真実な神の愛によって愛されている者のすることです。善に親しむことです。何が善であって神に喜ばれることかをわきまえ知りなさいと12:2で言います。
これが神の愛に応えて生きることです。福音に生きることです。
・
さらに11節で勤勉で怠らず、と言います。口語訳は「熱心でうむことがなく」と訳します。勤勉と訳されている言葉は、熱心、熱意、という意味の言葉です。怠るとは、あきらめること、やめること、飽きることです。ですから、怠らずとは、やめないこと、あきらめないこと、飽きないことです。
そう言われるとちょっと厳しいと思います。というのは、私たちの欠点は飽きることだからです。継続は力だと知ってはいても、なかなか自分の好きなことでないと続けられません。また、目に見える成果がないと続けるのも難しいのです。
前回取り継いだことで言うと、私たちには恵みに従ってそれぞれに賜物としての務めを受けています。それは私たちの好き嫌いではなく、主からその務めをするようにと賜物として与えられています。それをするのに、飽きるな、あきらめるな、やめるな、と言われるのです。たとえ目に見える成果がなくとも、です。
8節で、指導する者は熱心に、と言われます。この熱心とは、あきらめないことです。飽きないことです。ではどうしたらそうなれるのでしょう。
それは、霊に燃えなさい、というのです。このことについては次回にまた学びたいと思います。
一つだけ言うなら、神に愛されているということに留まり続けることです。霊に燃えるということは、神の愛を信じて、神の愛にとどまり、神の愛に応えて生きることです。