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10月5日説教要旨 「飽きないこと」 ローマ12:11,12

今、ローマ12章を読んでいます。同じ箇所から今日で4回目です。この箇所から何度取り次いだらその内容のすべてを語りつくせるか、予想もできません。

パウロは11章まで福音について書いてきました。そして12章からその福音によって生きることについて、具体的に勧め、教えます。いわば信仰の生活の急所を押さえているのが12章からの勧めです。1節、2節はその総論であり、結論です。私たちの信仰は、自分の体を神に捧げること、それが神の愛、恵みに応えることです。それが礼拝です。

礼拝とは応答です。神の言葉、愛、恵み、憐みに応えることです。それが福音に生きることです。福音は喜びの知らせです。ですから、福音を生きることは、喜びに生きることです。神の喜びに生きることです。それがどういうことかを具体的に教え、勧めているのが12章以下です。

今日もこの12章から神の喜び、福音の喜びに生きる姿を教えられ、学んで生きたと思います。今日は、先週も少しく触れました主に仕えるということから見ていきましょう。

先週、主に仕えることは私たちキリスト者の姿であると言いました。私たちの日々の生活は、主に仕えることです。主に仕えることとして人に仕えます。このことはロサイ3:18~24にも教えられています。

18,19節では、夫婦の関係を述べます。妻に、主にある者にふさわしく夫に仕えるように勧めます。夫には言っていないので、妻に対するだけの教えというのは屁理屈です。これは夫にも言っていることです。

20,21節は親子に対する勧めです。子が親に仕えることは主に喜ばれることであると言います。親もまた子に仕えることが主に喜ばれることです。

22~24節では奴隷に対して勧めます。主を恐れかしこみつつ真心から仕えるように勧めます。そして言います。何をするにも人に対してではなく主に対して仕えるように心からしなさい。

24節では、それは主からの報いとして御国を相続させていただくことを知っているからだと言います。あなたがたはキリストに仕えているのだ、と言うのです。ここには希望が語られています。御国を相続するというなくなることのない永遠の命の希望です。

私たちはこの希望に立ちます。そして艱難に耐えるのです。私たちの信仰は、この希望に立つのです。

しかし、私たちはうみ疲れてしまうことがあります。飽きてしまうことがあります。その時、私たちは主を見つめるのです。主に望みを置くのです。飽きずに、あきらめずに神の愛に望みを置くのです。

あなたの信仰は何か、と問われたら、私の信仰は飽きずに、あきらめずに神に望みを置くことです、と答えるのです。大丈夫です。主が共にいて下さいます。飽きず、あきらめずに、祈りに留まり、望みを抱いて喜び、主に使えるのです。

主に仕えるということは、いつも主イエス・キリストを見つめることです。これは祈りでもあります。信仰とは、主イエスを見つめる目を持つことです。主イエスにこそ希望があります。

主に望みを置くことは、祈りとなります。絶えず祈りに励みなさい、とは、神からのメッセージです。主イエスもこのことを私たちに教え、命じておられます。

絶えず祈りに励みなさい、と勧められます。毎日の生活の中で祈りの時間を取ることは大切です。しかし、祈りはそのために時間を取るだけが祈りではありません。絶えず祈りに励むということは、祈りにおいてたゆむな、やめるな、飽きるなということです。祈りに生きよ、ということです。私たちキリスト者の歩み、生活は、祈りに生きることです。

一定の時間に一定の場所で祈るというだけではありません。もちろん、「祈りの力」という映画にもあるように、祈りの部屋を持ち、祈りの時を持つことは大切です。

しかし、それだけが祈りに励むことではありません。祈りに励むことは、心を常に神に向けていることです。

ある人が、こんなことを言っています。キリスト者の心をスパッと何かで切ってみる。あるいは霊的なレントゲンというものがあってそれでその心の断面を見ることができるのなら、その最も深い所でいつも神に向かって心が広く開いていること、それが祈りに生きることです。そしてこれもまた喜びを生きる姿です。

祈りにおいて飽きずにいつも心を神の向かって開いていること、これが福音の喜びに生きることです。私たちは、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励むことをあきらめず、飽きずにするのです。

今日、私たちは聖餐の恵みにあずかります。聖餐によって私たちは神に愛されていることを覚えます。それ故にあきらめることなく、飽きることなく、望みを抱いて喜び、絶えず祈りに励むことができます。主に仕えることができるのです。