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今日、私たちはここに集まり、礼拝をしています。このことを「私たちは神によって呼び集められている」と表現します。教会とは、神によって呼び集められた者の集まりです。アッセンブリー・オブ・ゴッドです。漢字で表すと「神召会」です。
このことは、教会を言い表すのにふさわしいことです。皆さんは教会をどういう所と説明するでしょうか。
今日の箇所は、教会の姿を言い表している箇所と言えます。見ていきましょう。
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10節から13節は、原文では一つの文章です。愛についての十の教えと言われ、愛の十戒などと呼ばれます。愛について、さまざまな言葉で教えている箇所です。
この一つの文章の最初で「兄弟愛」を教えられ、最後に「旅人愛」を教えます。10節、兄弟愛によって互いに労わり合い、慈しみ合い、思いやりなさい、と教えます。そして13節、旅人をもてなしなさい、と言います。原文は、旅人への愛を追いかけなさい、努めなさいです。
今日は、13節、そして14節を中心に見ます。
13節は、多様な翻訳がなされます。新改訳第3版「聖徒たちの入用に協力し、旅人をもてなしなさい」。口語訳「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」。新改訳2017「聖徒たちの必要をともに満たし、努めて旅人をもてなしなさい」。新共同訳「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい」。
協力し、ともに満たし、助け、自分のものとして助け、と訳されている言葉は、私たちが普段、教会で使っている「交わり」という言葉の動詞形です。原語は「コイノーニア」という言葉の動詞形です。
この言葉は、教会を的確に言い表す言葉の一つです。ファミリーキャンプの主題聖句のⅠコリント9:23にある「ともにあずかる」という言葉もこれと同じ語源です。
交わりと訳される言葉は、ともにあずかる、分け合う、という意味です。新共同訳にあるように貧しさを自分のものとして助けることは、自分もその恵みにあずかることです。
そのようにして助けることの一つの姿、具体的なことが、旅人をもてなすことです。この「旅人」とは、13節の流れから言って「聖徒たち」つまり、教会の仲間、キリスト者をまずさします。
どのようにもてなすのかというと、宿を貸すということです。当時は、今のようにホテル、旅館があったわけではありません。また、当時は自分がキリスト者であることを公にはできなかったということもあり、教会の仲間に宿を貸すことがよくあったと思います。
ところで、この13節の勧めをどう受け止めたらいいのでしょうか。貧しい聖徒をどう助けたらいいのでしょうか。この勧め通りに受け取ることも大切です。そこで問題となるのは、たとえば、お金の貸し借りについてです。これは難しい問題です。
教会において兄弟姉妹同士のお金の貸し借りは注意しなければなりません。時に人間関係を壊すことになりかねないからです。もし貸す場合は、差し上げる覚悟で、返ってこないことを覚悟で貸すことです。見ていない所で見ておられる神からの報いを求めてです。借りる人は貸して下さった人の祝福を祈るのです。
聖徒たち=教会の仲間の必要を自分のこととして受け止め、助けるのです。それが分け合うことであり、ともにあずかることです。そしてこれを気張ってするのではなく、祈りつつ行うのです。
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次に旅人をもてなすように、ということです。もてなすと訳されている言葉は、追いかけるという意味の言葉です。新改訳以外は「努めて」という言葉を訳出しています。この言葉は「迫害」という意味の言葉でもあります。
もてなすこととは正反対の迫害もまた、追いかけることです。だから「努めて」と訳されるのです。旅人愛に努めなさい。追いかけるようにして愛しなさい、ということです。
パウロがこの言葉を口にした時、自分のことを思い起こしたに違いありません。努めて追いかけるように旅人を愛しなさい、と言った時、自分がかつてキリスト者を追いかけ、迫害していたことを思い起こしたことでしょう。その迫害をしていた自分を、主イエスは呪いではなく、祝福をもって臨んで下さった。救いという祝福をもって臨んで下さった。
ですから、14節で迫害のことが語られるのです。迫害する者を呪ってはならない。祝福すべきあって、呪ってはならない、と言うのです。
祝福するとは、悪く言うのではなく良く言うことです。ほめることです。良くしてあげることです。このことは19節~21節でも詳しく勧めています。自分で復讐するな、祝福しなさい、と言うのです。
私たちはどうしても自分の気が収まるかどうかで判断します。自分の気が問題ではないのです。神に愛され、主イエスによって祝福され、救われた者として、私たちは祝福するのです。
祝福するということはまた、共に恵みにあずかることです。恵みを分かち合うことです。教会にはいろいろな問題が起こります。それは人の集まりですから、互いに気持ちのすれ違いが起こるのです。
しかし、教会とはどういう所かを理解することで、問題が起こってもそこが神の教会、神によって呼び集められた所となるのです。
兄弟愛によって進んで愛し、慈しみ、教会の仲間を追いかけるようにして愛する、恵みを分かち合うところが教会です。
私たちは神の教会です。キリストの体です。この教会に呼び集められたものとして、恵みを分かち合っていくのです。