新たな世代とともに、受け継がれる教会

集会案内 アクセス お知らせ

11月2日説教要旨 「主イエスの弟子として」 ローマ12:15~21

今日、洗礼式を行います。私たち教会にとって感謝であり、喜びです。洗礼は、マタイ28:19で主イエスが命じられたことです。この箇所には、弟子とすることと洗礼を授けることが命じられています。

このことからわかることは、洗礼を受けることは主イエスの弟子になることだということです。洗礼を授ける牧師の弟子ではなく、主の弟子になるのです。

私たち主イエスを信じる者を「クリスチャン」と言います。この言葉は使徒の働きに出てくる言葉です。自分たちでそう言ったのではなくて、クリスチャンでない人たちからのあだ名でした。クリスチャンたちは自分たちを「主の弟子」と呼んでいました。

私たちは自己紹介で「私はクリスチャンです」と言いますが、「主イエスの弟子です」とはなかなか言いません。しかし、私たちは「主イエスの弟子」なのです。

聖学院という学校が近くにあります。この学校はアメリカの教団、教派「ディサイプルス」が作った学校です。「弟子たち」という意味です。私たちは主の弟子であるというアイデンティティを言い表しています。

今日の説教題は「主イエスの弟子として」です。洗礼を受けた私たちは主の弟子であるということを覚えたいと思います。今読んでいるローマ12章は、主イエスに従う主の弟子としての歩みを教えています。そしてこの歩みは、私たちキリスト者、クリスチャンに与えられた恵みなのです。その恵みを今日も知っていきましょう。

今日は15節から読みましたが、主イエスの弟子の歩みとして14節は重要なことです。これは主イエスのお姿に倣い従うことです。主イエスの教えそのものです。主イエスは、山上の説教(マタイ5章~7章)と言われる箇所で、敵を憎むな、迫害する者のために祈れ、と言われました(5:44)。

ですから、この14節の勧めは、パウロオリジナルの教えではありません。パウロは主イエスの教えに従い、このことを勧めているのです。

ある説教者がこの箇所についてこう言っています。「ローマの教会の人たちは、自分たちが本当に主の弟子なのかどうかを試される試金石がここにある、という思いでこの主の教えとしてパウロのこの言葉を聞いたのではないだろうか」。

14節の勧めは17節でも繰り返されます。これはまたⅠペテロ2:21~23、3:9にも見ることができる勧め、教えです。特に3:9では、悪に対して祝福を与えなさいと教え、あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたと言います。その祝福することの姿の一つが15節の教えです。

祝福することは、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣くことです。一緒に、ということが大切です。これは教会の仲間と一緒にということだけでなく、自分が遣わされている所、生きている所でも教会の仲間にしているのと同じようにすることです。そして13節の教え、勧めと同じ姿勢なのです。聖徒の貧しさを自分のものとして助けることは、教会の仲間でない人たちに寄り添い、共有することが勧められているのです。

これは神との平和を持っている私たち、主の弟子ができることです。主イエスに倣い従う者にできることです。主イエスは、主ご自身の弟子である私たちにその力を与えて下さっているのです。

うれしいことを誰かいっしょに喜んでくれたら、その喜びは大きくなります。悲しいことを誰かいっしょに泣いてくれたら、慰められます。私たちはそのような人を求めていることがあります。しかし、それを求めるのではなく、自分からそれをするのです。

なぜなら、私たち主の弟子は、主イエスを信じていつも慰めを受けているからです。共に喜び、共に泣いて下さる主イエスを信じ、知っているからです。この信仰はとても重要です。

そのことを16節で「互いに心を一つにして」と語ります。主イエスご自身が私たちと心を一つにして下さいました。寄り添って下さいました。私たちの所に来られ、私たちと同じ姿になられました(Ⅱコリント8:9、ピリピ2:1~11)。

主イエスは謙られました。私たち主の弟子は、この主イエスに倣い、従うのです。

そして17節で言います。悪に対して悪で返してはならない。すべての人が良いと思うことを図りなさい。

「図る」とは、前もって考えておくことです。反射的にそして自然にできることではありません。私たちは幼い時からやり返すことを知っているようです。ですから、意識的に図るのです。意識的にとは、祈りです。前もって考えることは祈ることです。

今日も一日、悪口を言われても、悪いことをされても、仕返しすることのないように、家族にも友人にも、そうすることができるように、と祈ります。誰に対してもと言います。

すべての人の面前で、目の前でという意味です。それはまた、神の前でという意味です。私たちはいつも神の前で生きています。人がいなくてもそこに神はおられます。

悪に対して悪で向かい合うのではなく、祝福することは、神の御前で生きることを意識することです。主イエスの弟子としての振る舞いです。そしてこれもまた熱心で倦むことなく、霊に燃え、主に仕えることです。

今日、私たちは聖餐の恵みにあずかります。主イエスは、私たちが富む者となるために貧しくなられました。私たち罪人に寄り添い、その罪を背負って十字架で死なれました。

私たちはこの主イエスの十字架の御業によって救われたことを覚え、感謝し、喜び、主イエスに従う主イエスの弟子として歩むことを決心します。

この後、洗礼式を行います。先に洗礼を受けた者も改めて「自分は主の弟子である」ことを自覚したいものです。主に喜ばれる者としての歩みをしていきたいものです。