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今日の聖書箇所は、「エマオの途上」と呼ばれる、有名な場面です。研究者たちは、エマオがどの場所に位置していたかを探っているわけですが、「アマウス」という地域が、エマオであったのではないかとされています。弟子たちは、イエス様が墓に納められるのを見届け、自分たちの生活していた場所へと帰っていきます。弟子たちがエルサレムに留まる理由はありませんでした。慕っていたイエス様が、この世にいないのならば、エルサレムにいても仕方がない、そのような思いだったのでしょう。
エマオの途上に出てくる弟子は、12弟子とは違う弟子だったようです。一人はクレオパ、もう一人の名は記されていません。イエス様と行動を共にしながらも、名を残していない無名な弟子に、復活のイエス様は出会われたのです。イエス様は無名の2人の心情もご存知でした。そして、2人の必要を満たすために、現れてくださったのです。では、弟子たちはどのような心情で、エマオへと向かっていたのでしょう。
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彼らの心は「失望」で覆われていました。弟子たちは、近づいて来られた方がイエス様だとは知りませんでした。ですから、ここ数日で起こった出来事について教えているのです。弟子たちは、イエス様をこのように紹介しています。「神と全ての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者」だと。そして「イスラエルを贖ってくれるはずだと、望みをかけていた」と。弟子たちは、イエス様が十字架刑によって辱められ、死なれたことに対して落胆していました。さらには、待ちに待ったメシアだと信じていたのに、その方が死なれた。この事実は、言葉にすることもできないほどの、失望を彼らに与えたのです。彼らの希望は、十字架の死によって、木っ端みじんに打ち砕かれてしまいました。しかし、失望の中にあっても、信仰は失いませんでした。弟子たちは、イエス様を偉大な預言者として、神と人の前で力ある御業を成すお方だと、信仰告白しているからです。彼らがこのようにイエス様を紹介しているとき、自分たちの信仰を意識していたかは分かりません。しかし、イエス様と共に生活していく中で、消えることのない信仰が芽生えていたのです。
私たちも弟子たちのように、失望や落胆を覚えるときがあります。そのような時、なんて信仰が薄い者かと感じることもあります。しかし、イエス様の御業は私たちの思いに関係なく、働き続けているのです。私たちに与えられている信仰は、そう簡単になくなるものではありません。
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弟子たちは、信仰は失っていませんでした。しかし「心の鈍い人たち」だったのです。イエス様は十字架に架かる前に、3日目によみがえることを話されています。しかし、弟子たちはそのことが理解できませんでした。それは「目がさえぎられていた」からです。弟子たちはイエス様と生活しながらも、真理を理解していませんでした。それは、心が鈍いことと同時に、霊的な目が遮られていたからです。霊的な目が遮られているとき、自分自身では脱することはできないのです。
イエス様は弟子たちに、十字架と復活の話をされました。しかし、弟子は理解できません。それは、神様ご自身がその言葉に覆いをかけ、主の時に神様ご自身がその意味を示してくださるからです。神様の介入なくして、霊的な目を開くことはできないのです。ですから、イエス様は2人の弟子たちに旧約聖書の解き明かしをされたのです。
私たちも時に、霊的な目が遮られている時があります。神様が語り掛けているにも関わらず、違う方向ばかり向いていることもあるかもしれません。そのような時でも、主は諦めることなく、私たちの霊的な目が開かれるまで語り続けて下さるお方であることを覚えましょう。
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さて、失望し、心も鈍い弟子たちの最後はどうだったでしょうか。最後には「心は内で燃えていた」と告白する者へと、変えられていたのです。「燃えた」と訳されている言葉は、「心が熱くなり、燃え立った」という意味です。「燃え立つ」とは、感情が激しく高ぶり、興奮している状態を意味します。聖書の解き明かしを聞いて、彼らはこのような状態になったと言っているのです。失望から興奮するような激しい高ぶりへと、心は変化したのです。
先週の日曜学校のメッセージの箇所は、今日の箇所でした。ジュニア科担当の先生が、この「燃える」と言う言葉を、「わくわく」という言葉で説明していました。弟子たちは、イエス様から聖書の解き明かしを聞いていた時、わくわくしていたはずです。失望や悲しみは消え、聖書の言葉が自分に語りかけてくる。その言葉は真実であり、今目の前で成就しようとしていると知ったとき、彼らの興奮は最高潮に達していたでしょう。
私たちは神様との交わりの中で、わくわくする思いを常に持っているでしょうか。私たちは心の状況に左右されがちです。神様が与えてくださるワクワク感、高揚感、興奮、平安はこの世のものとは全く違います。私たちは、心を満たすものを世の中に求めるのではなく、神様に求めていきましょう。神様との良き交わりの中で、常に心が躍り、平安に満ち溢れていくことができるように、求めて祈っていきましょう。イエス様はいつでも私たちのそばにいてくださいます。今週も本物を与えて下さるイエス様に心燃やしていただき、力を与えていただきましょう。