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1月7日説教要旨 「主イエスを見つめつつ」 ヘブル12:1~3

今年、最初の主日礼拝をここに持つことができることを感謝したいと思います。それと共に、1日に起こった能登半島地震で被災された方たちを覚えてお祈りをしたいと思います。

さて、今年もまた昨年と同じテーマと聖句を掲げます。主イエスを見つめる、ということは、私たちの信仰の肝というか、要とも言うべき事柄です。

昨年の最後の礼拝(先週ですが)で、主を待ち望むこと言うことを取り次ぎました。主イエスを見つめるということは、主を待ち望むことでもあります。今回の震災で被災された方たちを覚え、主の御業がなされることを待ち望みたいと思います。

改めて、今年も主イエスを見つめつつ、主を待ち望んでいきましょう。今日、与えられた御言葉から、聖霊の助けにより、恵みを汲み取り、受け取り、慰めと励ましと希望を受け取っていきましょう。

この朝は、少々、細かいことから見ていきます。今、私が説教で主に使っている新改訳第三版は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい、と命令形で訳しています。しかし、原文を見ると、ここは命令形ではありません。1節の最後に訳されているように、「~しようではありませんか」という意味合いの言葉です。ですから、口語訳では、1節でも2節でも「走ろうではないか」と訳しているのです。

原文では1節の終わりに句読点がありません。ですから、2節の最初の言葉は、1節からの続きの文章であるということです。

少し自由に訳すと「そういうわけだから、私たちもまた私たちを雲のように取り囲んでいる証人を持っているのだから、すべての重荷と絡みつく罪を脱ぎ捨て、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって、信仰の創始者、また完成者であるイエスに目を固定して走り抜こう」となります。

そして、「彼(イエス)は、ご自分の前に置かれている喜びに反して、恥を問題にせず、十字架を耐え忍び、神の右の座にお着きになった」というのです。

少々、長くなりましたが、おわかりいただけたでしょうか。この言葉は、命令ではなく、さあ一緒に主イエスを見つめつつ走ろう、と言っていることなのです。

信仰の営みは、一人で頑張ることではありません。一緒に主イエスを見つめ、一緒に主イエスに目を固定して、一緒にしっかりと見つめて走ることなのです。

パウロは信仰の営みを「歩く」と表現することが多いのですが、ヘブル書の著者は「走る」と言います。

走るにしても歩くにしても、私たち一人ひとりは、その速度の違いがあると思います。早い人、遅い人、強い人、弱い人がいます。

ヘブル書の背景には、信仰の友が信仰の戦いに疲れ、信仰から離れてしまうということがあります。そのことは3節の言葉からもわかります。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないため、と言います。事実、元気を失い、疲れ果ててしまった人たちがいたということです。

そうならないために、主イエスを見つめること、見つめつつ走ることが重要であるというのです。

3節では、罪人たちの反抗をしのばれた方のことを考えなさい、と言います。ここは命令形が使われています。罪人たちの反抗をしのばれた方とは、主イエスのことです。そしてその反抗とは、神に逆らう反抗です。神に敵対していたことです。

このことを2節では、辱めをものともせず、十字架をしのびと言っています。十字架は、罪人たちの反抗を耐え忍んだ主イエスのお姿です。この主イエスのことを考えなさい、と言います。

主イエスを見つめつつ走ることは、主イエスのことを考えつつ走ることです。このことが欠ける時、心の元気がなくなり、疲れ果ててしまうのです。

このことが実際に起こっています。信仰の仲間、友の中に疲れ果てている人がいます。信仰の生活の中で困難にぶつかっている時、心の元気を失うことがあります。気力を失うことがあります。ヘブル書の著者は、その現実を見ているのです。他人事ではなく、自分も気力を失いかけることもあったでしょう。だから、一緒に、と言っているのです。

走り続けよう、と言っているように、信仰生活は、長距離走をしているようなものです。その長距離走を走り抜くために必要なのが、主イエスを見つめること、主イエスに目を固定することです。

先ほど、走る速度は一人ひとり違うと言いました。ですから、時に人と比べてしまいます。しかし、人との比較は、信仰を導くことはありません。それらは時に、私たちの走るべき道を間違わせます。私たちは常に、自分の走っている道、コースが間違っていないかどうかを知る必要があります。それを知るのは、主イエスを見つめることによるのです。

私たちの走るべき道を間違わせるのが、罪です。絡みつくと言われていますから、それは強力であったりします。だからこそ、私たちのこの罪のために十字架にかかって死なれた主イエスを見つめつつ、走るのです。

この神に逆らうという罪こそが、私たちに疲れた思いを抱かせ、走るのをやめさせるのです。走るのは無意味だ、とささやくのです。

そこで、それらをかなぐり捨てて走り抜くのは、ただ、主イエスだけを見つめることによるのです。ヘブル書の著者もそのような経験があったのだと思います。だから、一緒に主イエスを見つめつつ走り抜こう、と言っているのです。

私たちも今年、さあ一緒に主イエスを見つめつつ、走り抜こう、と声を掛け合いたいと思います。主イエスが一緒に走って下さっているのですから。私たちを担って下さっているのですから。