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今日から再びマルコ福音書から恵みを取り継ぎます。2021年9月からマルコ福音書を読み始めました。それは、私たちが信じる福音の豊かさを深く知るために、主イエスのお姿を見つめ、その言葉に耳を傾けました。
ヨハネは、主イエスが人となって私たちの中に住まわれた(生きられた)と言います。そしてこの方は恵みとまことに満ちていたと言い、私たちはその方の満ち満ちた豊かさ、恵みの豊かさの中から恵みの上に恵みを受けた、と言います(ヨハネ1:14~16)。
神の子イエス・キリストの福音をコツコツと丁寧に読んできて、今日から14章に入ります。今年のイースターは4月20日です。その復活の主の日に向かって14章以下を読んでいくことは幸いなことと思います。私たちを生かす福音の豊かさを見ていきましょう。
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マルコ福音書は、14,15章と主イエスの死への歩みを丁寧に書き記しています。死への歩みとは言いましたが、決して自殺をしたというのではありません。
祭司長や律法学者たちが主イエスを何とかしてだましてでも捕らえて殺そうと相談していました。その相談した日は、過越しの祭りと種なしのパンの祭りの二日目のことです(1,2節)。ここに主イエスの十字架の死の意味、過越しの祭りの意味することがすでに語られています。
主イエスの死は、祭司長や律法学者たちの策略、計画によるのではないということです。彼らは、祭りの間はやめようと言っていましたが、主イエスの十字架の出来事は、彼らの計画に反して、過越しの祭りの時に起こりました。このことは重要なことです。
過越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷から救い出されたことを記念し、神の御業に望みを置くためになされた祭りです。この時には、種なしのパンを食べます。それはエジプトを脱出する時に食べたとされるパンを思い起こすためです。
エジプトの奴隷の時、小羊を屠り、その血を家の門に塗る。その血が塗られている家だけ死の力が通り過ぎた。その血を塗っていない家の長子が人間から家畜に至るまで死んだ、それでエジプトの王はイスラエルの民を解放した。
このようにこの祭りは、イスラエルの民が、エジプトの奴隷から救い出された出来事、神による救いの出来事を思い起こして感謝し、喜び、祝う祭りでした。ですから「命の祭り」と言った人もいます。
この出来事に神の小羊イエスの十字架の死を見るのです。人を罪の奴隷から救い出す神の救いの御業を見るのです。主イエスの死は、我々を救う神の御業です。このことが過越しの祭りの時に起こったのです。
主イエスの十字架の死は、人間の策略、計画によるのではなく、神の御計画です。今日は、11節まで読みました。10,11節には、イスカリオテのユダの裏切りのことが記されています。主イエスの十字架の死は、祭司長、律法学者の思惑、ユダの思惑によるのではなく、神の御計画によるのです。人によるのではなく、神によってなされた救いの御業なのです。
マルコはこれを神の子イエス・キリストの福音として書き記しました。これがこの福音書を貫いている主題です。神の子イエスは救い主、キリスト。それは十字架の死と復活によってなされた私たち人間の救うキリストである、ということです。
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いよいよ神の救いの御業がここに始まります。その最初に、名もなき女性が非常に高価なナルドの香油を持って主イエスたちの食事の席で、その壺を割り、主イエスの頭に注ぎます。
なぜそうしたのでしょうか。一緒に食事をしていた何人かの人たち(たぶん弟子)からは、なんのためにと言われてしまいます。マルコは女性の答え記していないのでわかりません。ただ主イエスの言葉だけが、この女性のしたことの意味を語ります。
わたしのために立派なことをしてくれた、と主イエスは言われます(6節)。そして、私の埋葬の用意にと私の体に前もって油を塗ってくれた、と言われます(8節)。
これは主イエスの埋葬の用意だというのです。そしてそれは立派ことと言います。美しいことという意味の言葉です。美しいとは、神の目的にかなっているということです。
この行為は、主イエスの葬りの準備、そのために油を塗ったことです。そしてこの葬りの準備は、復活に向かっての準備でもあります。だから主イエスは、この女性のなすがままに任せたのです。
神の御計画は、主イエスの十字架の死、そして復活による私たち人間の救いの御計画です。マルコは、主イエスが十字架の死を通り、よみがえられたことを記します。十字架に向かう主イエスは、復活に向かう主イエスです。
この出来事こそ、福音です。私たちの喜びと希望、命を与える出来事です。
主イエスは言われます。世界中のどこでも福音が宣べ伝えられるところなら、この人のしたことも語られ、記念となる(9節)。この言葉の最初に「アーメン、わたしは言う」という言葉があります。主イエスの言葉はどれも大切で、聞き逃してはいけないのですが、最も大切なことを言われる時、私たちが聞き逃してはいけない言葉を言われるとき必ずこの言葉を言ってから、お語りになります。
アーメン、わたしは言う。福音が伝えられるところどこででもこの人の舌ことが語られ、覚えられる。
福音とは、主イエスの十字架の死と復活こそが、私たちを救い、私たちに喜びと希望と命を与えるものです。信じる私たちを生かす恵み豊かなものそれが福音です。
改めて十字架に向かわれる主イエスのお姿に目を見つめましょう。私たちを救い、新しく生かし、喜びと希望と命に生かす神の救いの御業、主イエス・キリストの福音に目を見つめましょう。