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4月20日説教要旨  イースター召天者記念礼拝 「復活の希望に生きる」 Ⅰコリント15:12~20 ・

イースターおめでとうございます。私たちの教会は、このイースターの日を召天者記念礼拝としています。先に天に召された信仰の友、家族を思い起こし、復活の希望を確認します。思い起こすことは、故人の思い出に浸るというのではなく、復活することを信じ、それを待ち望むことです。私たちキリスト者は、復活の希望に生きる者です。

昨年、私たちは多くの信仰の友を天に送りました。天に召されました。それは、神が召して下さったことです。そしてご自分の懐に入れて下さったのです。彼らは今、よみがえりの朝を待っています。私たちはこの希望に生きます。

この希望は、主イエスの復活にあることを今日、ここで改めて知ります。確認します。与えられたⅠコリント15章からそれを聞き取っていきましょう。

今日与えられた箇所の12節には、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられている、と記されています。パウロはこのように福音として宣べ伝えました。15:1がそれを語ります。あなたがたが信じてそれによって立っている福音、と言います。

立っているということを、新共同訳では、生活の拠り所としていると訳します。生きる力としているということです。希望としているということです。

希望とは、願いごと程度のことではありません。生きる力となる希望です。それが福音です。

その福音が、3節4節にあることです。聖書が示す通り、キリストは私たちのために死なれたこと、葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目によみがえられたことです。

私はこのように宣べ伝えた。あなたがたはそのように信じて救われた。生きる力となっているのに、なぜ今、信じられないのか、とパウロは感情をあらわにして語っているのが今日の箇所です。

当時、コリントの教会の中には、福音であるキリストの復活を否定する人たちがいたのです。皆さんはどうでしょうか。キリストの死者の中からの復活を信じていますか。

キリストが復活したということには、それを否定するための言い伝えがありました。弟子たちがその遺体を持ち去って、さも復活したかのように言いふらしていた、などといわれていました。マタイ福音書がそれを書いていますので、当時、巷に流布していたことだったかもしれません。

しかし、主イエスが十字架にかけられた時、クモの子を散らすように逃げてしまった弟子たちが、そのような大胆なことをするとは思えません。

また、教会の中には、グノーシス派と言われる人たちもいました。彼らは、死者が復活したのではなく、キリストの霊が見えただけだ、と主張していました。

コリントの教会ではもっと深刻な状態でした。キリストの死者の中からの復活はなかったと主張して、教会の人たちを惑わしていた人がいたというのです。35節の言葉を言う人たちがいたのです。パウロは「愚かな人たちだ」と感情をあらわにしています。感情と言いましたが、パウロにとって、主イエスの復活は命にかかわる大事なことでしたので、これほどに感情があらわになったのでしょう。

キリストが復活されなかったら、私たちの宣教はむなしい、無駄なこと、無意味だ。またあなたがたの信仰も同じだと言います。17節でもこのことが繰り返されています。あなたがた、と言っていますが、これはこう言うパウロも同じだということです。

キリストがよみがえらなかったら、私たちはいまだ罪の中にいる、絶望の中にいる、死の中にいる、ということです。しかし、神がキリストをよみがえらせた。今やキリストは眠った者の初穂としてよみがえられた。そして私たちを罪と死の中、絶望の中から救って下さったのだ、というのです。

私たちはこの信仰を持っています。この信仰に立っています。私たちの信仰は復活信仰です。この信仰に立つのは、戦いであると言って良い。誰と戦うのかというと、悪魔との戦いです。悪魔は、私たちの心に「キリストの復活を信じるなんて愚かだ」とささやきます。このささやきとの戦いです。それはまた私たちの不信仰との戦いでもあります。絶望との戦いです。

今私たちを取り巻く社会は、希望を持つことを許さないような状況があります。しかし、そのよう中で、それでもなお私たちが希望に生きることができるのは、キリストが死者の中から甦られたことを信じるからです。

絶望の中で、やけになって虚無的に生きる。どうでもいい、と思う。しかし、そのような中から私たちは救われました。希望を持って生きる者となりました。それは、キリストが死者の中からよみがえられたからです。

私たちはこの朝、改めてキリストの復活の出来事に目を留めます。復活の主イエス・キリストを見つめます。

主イエス・キリストの復活を喜び、お祝いする礼拝を、私たちは、先に天に召された信仰の仲間、家族を思い起こす時としました。葬儀の時、火葬場から帰ってきて食事をしている時、故人の思い出を語り合うということがあります。それは、感傷に浸るためではありません。思い出すことで辛くなるということもあります。

そこで召された方の信仰生活を思い起こして、彼は復活の希望に生きたことを思い起こすのです。

毎年行う墓前礼拝でも言っていることですが、墓が最終到達地ではありません。私たちはやがてよみがえります。先に天に召された信仰の仲間、家族は神の懐に抱かれ、休んでいる。そして、再び主イエスがこの世に来られる時、先に眠った彼らがまずよみがえり、生きている私たちも一緒に主イエスと永遠に共にいるようになります。

私たちは、このイースターの日、主のよみがえりを喜び、お祝いする日を復活の希望に生きる日とします。復活の希望を生きる力とするのです。