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先週に引き続きローマ12:1,2から恵みを汲み取っていきます。
福音によって救われ、生かされている命をどう生きるか、それを勧めているのが12章以降の内容です。その総論というか、ガイドとなるのが今日の箇所です。神に喜ばれ、受け入れられる、きよい、生きた供え物としてどう生きるのかを具体的に解き明かしているのが12章以降です。前回、少し触れました「キリストに向かって進む」私たちの具体的な歩みです。
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前回、神の豊かな憐みに応えて、自分の体を神に捧げること、これが私たちの礼拝であるということに少しく触れて終わりました。今日はその続きです。
パウロは、神の豊かな憐みによってお願いすると言います。お願いという言葉は、勧める、慰めるという意味であり、側に呼び寄せるという意味があると言いました。ここに聖霊に働きがあることを覚えます。
そのようにして勧めるキリスト者の歩み、生活とは、自分の体を神に受け入れられ=喜ばれる、きよい、生きた供え物として捧げることだというのです。気持ちを、ではなく、体を捧げなさいと言います。
捧げるという言葉には、側に置く、側に持って行くという意味があります。自分の体を神の側に持って行って、そこに置きなさい、ということです。
このことで具体的に思い起こすのは、献金です。献金は、献身の表れと言ったりします。そして献金のお祈りの時「神様の御用のため、栄光のためにお使いください」と祈ります。献金は自分を神のそばに持って行って置くことです。そして、神の御用のため、お働きのためにお用い下さいという祈りと共に捧げることです。ここに私たちの礼拝の意味があります。
Ⅱコリント5:17にはキリストのうちにある者は新しく造られた者だとあります。それは、神に私たちの体を捧げる歩みをする者になったということでもあるのです。
そこで、神に受け入れられる=喜ばれる、きよい、生きた者として捧げなさいと言います。どうすればそうなるのでしょうか。それを教えているのが2節以降です。
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もう少し1節の言葉に目を留めます。自分の体を神に捧げること、それが私たちの礼拝だと言います。それを「霊的な礼拝」と言います。日曜日ごとの私たちの礼拝を指して言っています。それと共に、私たちの毎日の生活もまた、神に自分の体を捧げる歩みだということです。
具体的に、私たちは日曜日ごとに自分の体をこの礼拝の場所に持ってきます。それは神の側に持ってきて置くことです。Zoomでの礼拝も同じです。時間を捧げています。これは大変なことです。そして大切なことです。
私たちキリスト者のことを知らない人たちにとって、そこの神社にお参りするのも、教会に来るのも同じように思っているかもしれません。しかし、私たちの礼拝は、全く違います。私たちの献金は、お賽銭とは違います。私たちの献金は、献身の表れです。神の御用のために捧げるきよい捧げ物です。きよいとは、神のために取り分けておいて、神のために用いることです。
ですから、私たちの献身とは、この体を神に捧げることです。神のお役に立つように、神の御業のために用いて下さいと祈って捧げます。献金はそのようにして捧げるものです。
日曜日だけ自分の体を神に捧げるのではありません。日曜日の礼拝と共に私たちの毎日の生活そのものを神に捧げるのです。礼拝なのです。それが神の憐れみ、慈しみに応えて生きる生活であり、礼拝なのです。
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その礼拝を「霊的な礼拝」と言います。口語訳は「私たちのなすべき霊的な礼拝」と訳します。他の訳を見ると新共同訳「なすべき礼拝」。新改訳2017「ふさわしい礼拝」です。
霊的というと何か神秘的なことを意味しているかのように思うかもしれません。そうではありません。
英語訳のNKJVは「リーズナブル」と訳しています。利用しやすい、お手ごろななどと言う時にも使いますが、それよりも「理にかなった」という意味です。道理にかなうことです。そうすることが正しいということです。
神の豊かな憐み、愛によって救われ、生かされている命を持っている者として、これこそが理にかなう、ふさわしい、正しい生き方なのだということです。それが霊的な礼拝の意味です。
ある説教者がこの箇所の説教でローマ8:38,39を引用しています。前回もこの箇所との関係でお話ししました。私たちを神の愛から引き離すものは何もない。ここに私たちキリスト者の姿が言い表されています。
私たちはこれほど強く神の愛に捕らえられています。どんなものでも、どんなに力ある者でも、それこそ天使であっても、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちは引き話すものはないのです。そのような愛に捕らえられています。それが私たちキリスト者なのです。
泣いても苦しんでも、また喜びの中でも不幸のどん底でも、私たちは神の愛から引き離されないのです。
そのような愛によって生かされている私たちが、自分の体を神に捧げることこそが理にかなっていることです。ふさわしい歩みです。私たちのなすべき礼拝です。
そしてこれこそが、神に受け入れられる、神に喜ばれることなのです。
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今日、私たちは、聖餐の恵みにあずかります。私たちの主イエス・キリストにある神の愛を表す聖餐です。これを受けるたびに、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もない、誰もいないということを確認します。
そして、主イエスの十字架の死と復活に現わされた神の愛、豊かな憐みに応えて生きることを決心します。
これこそ、私たちの霊的な礼拝です。