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先週、新たな思いをもって前に向かって進もうと勧めました。新しい年、新たな思いをもって御言葉を取り継ぐのに、どの箇所から説教をしようかと祈りつつ考えました。そこで導かれたのは、マタイ5章の山上の説教から、九つの幸いについて告げられる主イエスの御言葉を取り継ぐことにしました。
今日はその緒論と言うか、総論的なことを取り継ぎます。共に主イエスのお語りになった幸い=喜びの知らせ、福音を聞き取っていきたいと思います。
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今日の箇所を主イエスが告げられる九つの幸いの12節までとせず、16節まで読んだのは、13節以下に私たちのキリスト者の実存を主イエスがお語りになっているからです。主イエスが「幸いな者よ」と呼んでおられる私たちキリスト者は、地の塩であり、世の光であるのだということを覚えたいからです。
あなたがたは地の塩、世の光だ、と主イエスは言われます。これが私たちキリスト者の実存です。主イエスが告げる「幸い」な道を歩んでいる者、私たちなのです。
主イエスの幸いを告げる言葉を、私が説教を担当する間、取り継いでいきます。説教とは、主イエスの語る幸い、喜びの知らせ=福音を語ることです。言うなら、牧師・説教者とは、主イエスの告げる幸いを取り継ぐことです。どんな形であれ、福音を告げる者です。立場を違えたとしても、福音を伝えます。それこそ、死ぬ時も福音を伝えるのです。
そして御言葉の説教を聞き、信仰の力とする皆さんもまた、説教から主イエスの告げる幸いを聞き取っていくことが求められるのです。というのは、この幸いを告げる主イエスの言葉は、主イエスに呼び出され、主イエスの後についてきた弟子たちに語られた言葉だからです(1節、2節)。
聞き手は、弟子たち=私たちキリスト者なのです。そしてこの聞き手である私たちが、この幸いを伝えるために、この言葉を持ち運んでいくのです。これが地の塩、世の光として歩むことなのです。
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幸いな者よ、との呼びかけの言葉は、当時のギリシャ世界においては、賞賛の言葉、ほめたたえる言葉だそうです。それは神に対して使う言葉とのことです。それを人に対して使う時は、神のような幸いを得た人だ、という意味で使うのだそうです。
その言葉、呼びかけを主イエスはご自分の言葉に耳を傾ける者に、私たちにお語りになっているのです。
しかし、ここで語られている幸いな歩み、生き方は、幸いと呼べるものではないように思えます。明らかに私たちにその生き方を教えておられる言葉です。厳しいとも思える生き方です。心の貧しい者の幸いとは、悲しむ者の幸いとは何でしょうか。
一つは、これが主イエスについていく者の生き方であるということです。主イエスを信じて生きる者の幸いをお語りなっていることです。主イエスが「私についてくるものは幸いである」と言っておられることなのです。
この主イエスの幸いを告げる言葉を聞き取ることに、私たちの信仰生活がかかっています。主イエスを信じて生きることは、主イエスについて行くことであり、それは主イエスがお語りになる幸いの言葉を聞き取ることなのです。
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それにしてもこの九つの幸いを読むと不思議だと思います。なぜこれらのことが幸いなのでしょうか。
主イエスここで幸いな者よと呼んで下さる人の生き方は、貧しさであり、悲しみであり、柔和であり、義に飢え渇くこと、苦しむことであり、損をしても憐れみに生きることであり、汚れの中できよく生きることであり、争いのある中でなお平和に生きることであり、迫害されて生きることであり、主イエスを信じる故に悪口を言われることだというのです。
この世の常識をひっくり返しています。信仰を持つことは、富むこと、そしてそれが祝福だととらえることもあります。無病息災、家内安全、商売繁盛が信仰のもたらすものだという人もいます。
神を信じていても、主イエスを信じていてもこんなに苦しいこと、辛いことがあるなら何の意味もないということも頭をよぎります。しかし、そのような中でその思いや考えをひっくり返すようにして、ここに幸いがある、その人は幸いな人だと称賛する主イエスがおられるのです。
辛く悲しいことが続くことがあります。しかし、人が幸いを見出し得ないそこに主イエスは幸いを作って下さるのです。主イエスは、私たちが暗闇と思うところに幸いという光を作り出すために来られたのです。
私たちはこの主イエスの幸いを告げる言葉、喜びの知らせの言葉を聞き取る必要があるのです。
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3節からその幸いが語られています。なぜ幸いなのか。それは天の御国はその人のものだから、と言われます。この言葉は3節と10節にあります。主イエスがお語りになる幸いは、ここにあります。これは、今ここにおける現実、事実です。
天の御国はその人のものとは、神が共におられるということです。神がその人を捕らえておられるということです。これほどの幸いはないのです。
なぜこの世の幸いをひっくり返すようにして貧しさ、悲しみを幸いと言えるのかというと、今ここに生ける神の御支配を信じるからです。
この現実が見えないと言うでしょうか。神の御支配はどこに見えるのでしょうか。それは、主イエスの十字架の出来事に見えるのです。復活の出来事に見えるのです。主イエスがこの幸いを語り得るのは、主イエスご自身が十字架の死と復活によって神の御支配を明らかにされたからです。
私たちはこの主イエスの幸いを告げる言葉、喜びの知らせの言葉を聞き取っていくのです。