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1月18日説教要旨 「貧しい者の幸い」 マタイ5:3

今日から主イエスがお語りになった九つの幸いを一つ一つ取り継ぎます。今日は、心の貧しいものは幸いである、ということです。

私たちがこの言葉から聞き取るべきことは、先週もお話したことで、主イエスの祝福の言葉、喜びの知らせの言葉を聞き取ることです。心の貧しい人は幸いであるということを聞きます。なぜ、貧しい人が幸いなのでしょうか。主イエスが幸いだと祝福される貧しさとは何か。共に考え、聞き取っていきましょう。

ここで主イエスは単に、貧しい人は幸いだ、と言われているのではなく、心の貧しい人は幸いだと言っておられます。前回、その貧しさがなぜ幸いなのかということについて取り次ぎました。天の御国はその人のものだから、というのです。

このことは、今ここにおける現実、事実を告げている言葉です。主イエスが伝えられた福音、喜びの知らせの主題、中心がここにあります。主イエスは、天の御国は近づいたと告げられました(マタイ4:17)。この言葉は、今ここにある事実を告げた言葉です。

天の御国とは、神の御支配です。では、その神の御支配がここにあるという貧しさとは何でしょうか。

主イエスは「心の貧しい人は幸いだ」と言われました。心の貧しい人という言葉は時に良い意味では使われません。あの人は心の貧しい人だというのは、精神的な貧しさと言うか、さもしさと言うか、人の善意を無視したり、心の狭いことだったりを指して言うことがあります。しかし、主イエスがここで言われる心の貧しいこととは、そういうことではありません。

心と訳されているギリシャ語は、「霊」という意味の言葉です。8節に「心の清い人」ということの「心」とは違う言葉です。

ではなぜ、霊と訳さなかったのでしょうか。その理由はわかりませんが、この箇所を原文に即して訳すと「幸いな人たちよ、貧しい人たち、霊において」となります。最後の部分を「霊との関わりにおいて」と訳す人もいます。

ここで心と訳された言葉は、神との関わりのある所、という意味です。そこにおいて貧しい人というのです。

それでは、神との関わりにおいて貧しいとはどういうことでしょうか。

ここでの貧しさは、程度のことではありません。例えば、多くのものを持っている人に比べたら自分は貧しい、というようなことではありません。

もっと徹底した貧しさです。何も持っていない状態のことです。誰かに助けてもらわないとやっていけない状態のことです。

私たちは誰でも誰かに助けてもらわないといけないのですが、それでもどこかで自分の力で何とできると思っていることもあります。神に頼らずとも、祈らなくても自分の力で、経験でこれくらいことはできると思うことがあります。

しかし、ここでの貧しさは、何もない状態の貧しさです。神との関わりにおいて、ということは、神に頼らなくては何もできないという貧しさです。そのことを自分自身が知っていることです。ですから、貧しいとは、自分の弱さを知っているということです。

それを知っているからこそ、神に頼らないと何もできないのです。その貧しさを知り、貧しさに徹することです。

ここで、神に頼るということがどういうことかを考えなくてはなりません。この貧しさ、弱さを知るのにパウロが最も良い例になると思います。

今年最初の礼拝でピリピ3:12を取り継いだ時、お話ししました。彼は自分がどのように生まれ育ったのかを語っていました。熱心に律法を守っていました。当時の最高学府での教育を受け、ローマの市民権を持っていました。彼はある程度裕福だったと思います。それを肉の誇りと言っています。しかし、キリストを知った今、そのキリストを知った知識の絶大な価値のゆえにそれを損と言い、全く役に立たないものと思っている、と言います。

そして、今祈祷会で読んでいるⅡコリント11:30では、肉の誇りを自慢するのではなく、自分の弱さを誇る、と言います。その弱さとは、神の力なくして、恵みなくしては何もなしえないという弱さです。貧しさです。それを知っているからこそ、神に頼ります。

神に頼ること、神に頼らないとどうにもならない貧しさ、弱さを知っている人、その人が幸いなのだ、と主イエスは言われるのです。

その貧しさを知り、貧しさに徹して神に頼る時、私たちは神が共におられることを知るのです。天の御国、神の御支配の中にいることを知るのです。

今日は、私の救いと献身の証をします。私は人に良く思われようと良い子を演じていました。それを私の小学生の担任であった私を信仰に導いて下さった佐藤先生は見抜いていました。そして「あなたの罪のためにイエスさまは十字架で死んでくださった」と言われました。

嫌われたくなくて強がって見せて頑張っていました。主イエスはその私を愛して、私の汚い心を清めるために十字架で死んでくださった。それを知った時、そして信じた時、肩の力が抜けました。その時の喜びは今も忘れません。続いています。

主イエスを信じ、はじめは勘違いでしたが、牧師伝道者になろうと決心しました。神学校の学費はまったくありませんでした。当時の教会役員に「学費はどうするの」と聞かれ、答えに詰まりました。それを見ていた副牧師から「どうして、神に頼ります、と言えんのだ」と叱られました。貧しさに徹することを学びました。この後、この信仰は何度も試されました。お金のことだけではありません。すべてにおいて神に頼ることを教えられました。

私自身には何もない。ただ弱さを誇る。弱い時にこそ強い。貧しい時こそ、神の御支配の中にいることを知るのです。心の貧しい人、神に信頼する人こそ、幸いなのです。この祝福の言葉を聞き取って立ち上がって行きましょう。