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1月25日説教要旨 「幸いな人よ-悲しむ人」 マタイ5:4

今、山上の説教の中の幸いを告げる主イエスの言葉を取り継いでいます。今日もその言葉に耳を傾けていきましょう。

山上の説教は、私たちキリスト者の生き方、あり方を教えています。その教えの中には、私たちが毎週の礼拝で祈る主の祈りがあります。主の祈りは、主イエスが教えられた祈りです。主イエスは、私たちに祈り方を教えておられるのです。そして祈りは、私たちの生き方を決めます。

その山上の説教の最初に九つの幸いを告げる主イエスの言葉があります。今日、聞き取っていくその言葉は、悲しむ者は幸いです、その人は慰められるから、という言葉です。この幸いの言葉に耳を傾け、その声を聞き取っていきましょう。

主イエスが告げる幸いの言葉、幸いな生き方は世の常識をひっくり返していると言いました。今日のこの言葉はまさにその代表、象徴です。それだけにこの主イエスの幸いを告げる言葉を取り継ぐのに戸惑いを覚えます。

悲しみに生きる幸いとは何だろうか。どんな生き方だろうか。

ある人が、この言葉を語ることは、人間には不可能だと言っています。誰にも語れない。たった一人を除いては口にすることの許されない言葉だ、と言うのです。その人とは、主イエス・キリストです。

それは、主イエスこそが、私たちの悲しみの中に入って来られたお方だからです。その主イエスだけが語り得る言葉を人間が書き記したこと自体、奇跡だと思います。そしてその言葉を取り継ぐこともまた奇跡です。

主イエスの言葉は、真理です。それ故に、悲しむ者の幸いを語る言葉もまた真理です。現実のことです。私たちはこの言葉を聞き取る必要があります。信仰は、主イエスの告げられる幸いを聞き取ること、と最初の時に言いました。私たちを生かすのは、主イエスのお語りになる真理の言葉です。

この言葉を語り得る一つは、悲しむ者というのは、主イエスのお姿であるということです。そしてそれはまた神のお姿でもあります。その姿を語る言葉を聞き取ることは、私たちキリスト者の使命です。

キリスト者は、キリストが歩まれたように歩む者です。Ⅰヨハネ2:6にあるように。この御言葉は私が献身を決意した時の言葉です。

主イエスは、私についてくるものは幸いだ、と言っておられることです。ということは、ここに語られている主イエスのお姿に従うことです。

主イエスこそ、悲しむ者でした。その箇所を読みます。ヘブル5:7です。主イエスは、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげられた、とあります。悲しみをもって、悲しみの中で祈られたということです。

主イエスの悲しみは、祈りと深く結びついています。なぜ、悲しむ者が幸いなのかというと、それが祈りとなるからです。そしてその祈りを神が聞いて下さるからです。私たちはこの主イエスのお姿に従うのです。さまざまな悲しみの中で祈るのです。ここに幸いがあります。神との交わりがあります。そして慰めがあります。

もう一つの箇所を読みます。イザヤ53章です。この章は、主イエスの十字架のお姿を語っています。3節に、彼=主イエスは悲しみの人であった、と言います。この言葉は「痛みを知る人」とも訳せます。

主イエスは私たちの痛みを知り、悲しみの人として死んでいきました。4節には、主イエスが私たちの病を負い、私たちの痛みを担った、とあります。これは、悲しみを担ったとも訳せます。

主イエスこそ、悲しみの人、悲しみを担った人だったのです。それも私たちの悲しみ、痛みを担ったのです。だから、悲しむ者は幸いなのです。

さらにもう一箇所、聖書の言葉を読みます。詩篇56:8です。「あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください」。この詩篇は、嘆きの詩篇と言われます。敵が自分を痛めつけようとしている。その悲しみ、痛みの中で神に祈ります。

神は私のさすらい、苦しみ、涙に目を留めて下さるというのです。そして、私の流す涙を皮袋に蓄えて下さるお方と信じて祈るのです。皮袋とは、荒野の中での飲み水を入れる袋のことです。羊の胃袋などで作られています。

神は、私たちの一歩一歩の歩みに目を留め、 その悲しみの涙を飲み水として下さお方なのです。これがヘブル5:7に言い表されている主イエスのお姿が表している神のお姿です。

神は主イエスの涙を、悲しみを飲みつくして下さるお方です。主イエスの悲しみの涙は、ご自分の罪の故ではありません。私たちの罪の故です。それをご自分の悩みとし、痛みとし、悲しみとして背負って下さったのです。これがイザヤ53章に語られている主イエスのお姿です。それが十字架の死なのです。

私たちの悲しみが幸いとなるのは、私たちのどんな悲しみも主イエスが十字架によって担って下さると信じるからです。

私たちが悲しみ、涙を流す時、私たちは一人ではありません。主イエスが共に、いや先にその悲しみを担って、共に悲しんでいて下さるのです。

私たちキリスト者はこの主イエスの歩みに従います。そして他者の悲しみを共に悲しみ、祈る者となります。悲しみは神に向かう祈りとなります。ここに私たちの悲しみが幸いへと変えられるところがあります。

その人たちは慰められる、と今日の箇所は言います。私たちは祈ることで慰めを経験します。その慰めは今でないかもしれません。しかし、必ず報われ、慰められる時が来ます。

主イエスは、私たちをこの幸いへと招いておられます。主イエスを信じ、従って行くところに、必ず慰められるところがあります。主イエスはそのように約束して下さっているのですから。