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2月1日説教要旨 「幸いな柔和さ」 マタイ5:5

今、私たちは、山上の説教の初めにある九つの幸いの教えを読んでいます。とても幸いとは思えないことを、主イエスは「幸いな者よ」と呼んで下さっています。

なぜ幸いなのか。これを解くのに時に原語から掘り起こすことをします。原語を調べ、なぜこのような言葉に翻訳されたのかを考えます。時間がかかることでもありますが、実に面白い作業でもあります。Jバイブルというソフトは、このような作業の延長にあるものです。

そこで、今日の「柔和」という言葉ですが、どの訳もほとんど「柔和」と訳されています。

今日はこの幸いな柔和さについて耳を傾けていきましょう。

皆さんは柔和な人と聞くと、どのような人のことを思うでしょうか。言葉は感覚を表現することが多いと思います。柔和という言葉から受ける感覚は、優しさ、温和なことなどなど。

原語はご存じのようにギリシャ語です。当時の地中海沿岸の公用語です。この言葉で旧約聖書が訳されたのが70人訳聖書と言います。

70人訳でこの「柔和」と訳されたヘブル語はどのような言葉であったかというと、優しさとか温和とかいうのではなく、貧しさ、みじめさを意味する言葉でした。逆境にあることです。そしてその逆境に耐える心のことです。耐えてどうするのかというと、そこで神を待ち望むのです。

今日、詩篇37篇を読みました。11節に「柔和な人は地を受け継ぎ」とあります。この箇所を他の翻訳で見ると「貧しい人」と訳されています。どちらにも訳せるのです。

詩篇37篇は、地を受け継ぐ人とはどういう人かを教えています。9節には「主を待ち望む者、彼らが地を受け継ぐ」とあります。貧しく、虐げられ、それでも怒らず、主を待ち望む者、それが地を受け継ぐというのです。

悪を行う者、不正を働く者に対して怒りを捨て、腹を立てるな、と言います。そして「柔和なものは地を受け継ぐ」と言うのです。

主イエスのこの言葉は、詩篇37篇にあることをお語りになったと言えます。幸いな柔和さとは、すぐに怒らないこと、腹を立てないことだということです。仕返しをしないということです。

ある人は私訳で「力を用いない人」と訳します。武力に頼らず、威嚇しない人のことです。力を用いず、主を待ち望むのです。幸いな柔和さとは、主を待ち望むことだと言えます。

塚本虎二という神学者がいました。その人は「踏みつけられてじっと我慢している人たち」と訳しました。我慢すると訳した柔和さとは、眉間にしわを寄せて歯を食いしばって我慢するのではなく、主を待ち望むことです。希望を持つことです。

そうは言っても、この世で生きるうえで力を用いないのは難しいと思います。踏みつけられてじっと我慢するなどと言ったら、生きていかれないように思います。力を用いずと言うけども、その力、権力のない私たち市井の者は力を用いようがありません。踏みつけられて我慢するのにも限界があります。そして、あきらめも働きます。

そこで主イエスのこの言葉を改めて聞くのです。聞き取る必要があるのです。幸いに生きるために。

力を用いず、主を待ち望んだ人、それは、主イエスです。また、聖書に記されている信仰者の姿です。先週、悲しむ人の幸いを取り継いだ時、この悲しむ人とは主イエスご自身であると言いました。今日、私たちは改めて踏みつけられてじっと我慢している者の悲しみを担って下さる柔和な人こそ、主イエスであることを覚えます。

マタイ福音書には「柔和」という言葉が3回使われています。一か所が今日の箇所、そして後の二か所は、11:28,29です。また21:5です。どちらも主イエスのお姿を言い表している言葉です。主イエスはご自身のことを柔和であると言われ、私に学び、倣え、と言われます。また、力ずくで怒りや脅しによってではなく、柔和さ、優しさをもって支配する王であると言います。

主イエスの柔和さとは、主を待ち望む時に生まれる柔和さです。

主を待ち望むとは、主に委ねる心、思いです。信仰と言っても良いと思います。主に委ね、待ち望むところに柔和さが生まれます。その柔和さを幸いと主イエスは言って下さるのです。

柔和を、ゆったりとした思い、と言った人がいます。ゆったりとした思いを失うのは、神に委ねることができない時です。自分で何とかしないといけないと思う時、自分の力に頼ろうとする時、私たちは柔和さを失います。信仰を失います。

幸いな柔和さとは、私たちの心の問題ではありません。心が広いか狭いかという問題ではありません。信仰があるのかないのかという問題です。幸いな柔和さとは、信仰によって与えられるのです。

信仰がなければ神に喜ばれることはありません。

神を信じるとは、神に委ねることです。神を待ち望むことです。そこに柔和さが生まれます。幸いと言われる柔和さが生まれるのです。

主イエスは、私は柔和な者で、私に学び、倣えと言われました。私たちキリスト者は、この幸いな柔和さに生きることが求められています。

その人は地を受け継ぐと言われます。地を支配すると言われます。このことは、神がご自分に似せて人間をお創りになった時に、人間にお委ねになった使命です(創世記1:28)。

地を受け継ぐとは、この使命に立ち返ることです。それが主イエスの言われる幸いな柔和さです。神は、このことを望んでおられるのです。

神に委ね、神を待ち望む者こそ、幸いな柔和さを持つのです。主イエスに倣い従う私たちキリスト者は、この幸いな柔和さに生きるのです。