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2月8日説教要旨 「義に飢え渇く -望みを抱いて」 マタイ5:6

今、主イエスがお語りになった九つの幸いを一つひとつ丁寧に読んでいます。初めに言ったことですが、これらの幸いは、世の常識、私たちの常識をひっくり返しています。

貧しい者、悲しむ者が幸いだ、と言われると、私たちは戸惑います。しかし、今日の言葉、は、なんとなくわかる気がするのではないでしょうか。誰もが正しい思いをもっています。正義を持っています。その正しさを求めている者は幸いと言われれば、その通りと思います。

しかし、いざ正義を追い求めようとすると難しいことに気づきます。正しさだけでは生きていけないと思ってしまうからです。ですから、この主イエスの言葉もまた私たちの常識をひっくり返していると言えます。今日も主イエスの言われる幸いを聞き取っていきましょう。

ここで主イエスが言っておられる義とは、私たちもっている正義感ではありません。神の義のことです。

山上の説教の主題の一つは、この「神の義」です。いや、山上の説教を含め、聖書の主題は神の義にあると言っても良いと思います。

山上の説教の中の主の祈りの中に、御心が天で行われるように、地でも行われますように、という祈りがあります。この主の祈りを教えられたその後に、天の父=神はあなたがたが求めるより先にあなたがたの必要なものを知っておられる、と言われ、神の国と神の義をまず求めなさい、と教えておられます。この神の義です。

ローマ人への手紙もまた、この神の義を述べている手紙です。3:10に義人はいないと言います。そのような現実の中で、イエス・キリストによって信じる私たちを義として下さるわざ、それが神の義の現れだと言います。そしてそれが神の愛であることを述べています。ローマ書は、神の愛を述べている手紙です。

人間は、それぞれ正しい思いをもっています。人間が神の像につくられたということの意味することの一つです。誰もが正しく生きようとする思いを持ちます。

しかし、この私たちの持っている正義、正しさはもろいのです。また危ういのです。義人はいない、一人もいないのです。私たちの正義はちょっとしたことで壊れます。正直者は馬鹿を見るような現実の中で、正義を貫くこと、飢え渇いて求めることは時に空しい思いを持ちます。損をします。

それで、正しさを求めるのは、そこそこで良い、と一見あきらめともとれるような思いを抱くことがあります。そのような私たちの思いに主イエスは問いかけるように語りかけます。義に飢え渇く者の幸いをお語りになり、その幸いに生きることの中に私たちを招き入れようとしておられます。

あきらめるな、望みを捨てないで義に飢え渇くように求めなさい。なぜなら、神が義であるから。と語りかけます。その神の義は、私たちを愛して私たちを義として下さるのだから。神が私たちを愛しておられるということは、私たちに失望しておられないということです。

ある説教者がこの箇所の説教で、ノアの物語を取り上げています。ノアの時代、人間のあまりの堕落に神も一度は望みを捨てた、と言います。そしてノアの家族以外の人間をすべて滅ぼしました。しかしその後、神は、二度と滅ぼさないと言われ、人間に改めて望みを置かれました。その永遠の契約のしるしとして虹を表されました。

それでも人間の状況は変わらず、長い過ちの歴史を編みます。しかし神はその契約、約束に立ち、人間を滅ぼすのではなく、絶望の中にそのまましておかれたのでもなく、そこから救い、生かすためにひとり子である主イエスを人として生まれさせました。

主イエスの誕生、そして十字架の死と復活は、神が私たち人間に対して望みをお捨てにならなかったことのしるしです。あの虹はそれを意味します。ここに神の義があります。神が神として振る舞われたことなのです。

信仰に生きるとは、この神の義、神の愛を信じて立ち、生きることです。

義に飢え渇くということにもう少し目を向けます。

おなかが減り、のどが渇くということは誰にでもあります。欠乏です。義に飢え渇くということは、義が欠乏していることです。それを覚えることです。先ほどローマ3:10の言葉を引用しました。義人はいない、一人もいないということを覚えることです。

義に飢え渇くとは、自分の正義を貫くことではなく、その反対に自分に神の義が欠けていることを覚えて、その正義感をも捨てることです。義憤という言葉があります。自分の怒りは正しいと思うことです。それすらも捨てることです。

前回、柔和であることの幸いを取り継いだ時、自分の力を捨てることだと言いました。それは自分の正義を捨てることです。義に飢え渇くとは、柔和であるということでもあります。

飢え渇くからこそ、求めます。心の貧しさを覚えることと同じです。神の義が自分には必要であることを知り、追い求めて祈るのです。祈ることは、望みを抱くこと、希望を持つことです。神に望みを置くことです。その時、覚えてほしいのです。誰よりもこのような私たちに神は望みを持って下さっていることを。

時にこの世界のあまりの不条理さに嫌気のさす思いを持つことがあります。神の義が現わされていないと思うことがあります。しかし、そこに主イエスは私たちに語りかけます。望みを捨てないで、望みを抱いて祈れ、神の義が現わされることを祈れ、と言われるのです。

そして約束して下さいます。その人たちは満たされる。主イエスが責任をもってそう約束して下さるのです。神は私たちの祈りを聞いて下さいます。望みを抱いて祈り求めていきたいと思います。主イエスは私たちをこの幸いに招いておられます。