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2月22日説教要旨 「主イエスに倣う幸い -憐れみに生きる」 マタイ5:7

私たちは時に誰かを模範として倣うことがあります。その人のまねをします。しぐさや言葉遣い、字の書き方など。それがやがてその人の生き方になります。ロールモデルを持つことは大切です。また、誰かのモデルになることも大切なことです。

私たちキリスト者の最も良いモデルは、主イエスです。キリスト者はキリストに倣う者です。今読んでいる九つの幸いはキリストに倣う歩みです。

困り果てた群衆が主イエスの周りに集まってきました。その人たちを見て主イエスは山に登られました。そこに弟子たちが主イエスの周りに集まってきました。その弟子たちに教えられたのが山上の説教であり、その最初にこの九つの幸いをお教えなったのです。主イエスの従う者に、このように生きなさいとお教えになったことです。

4章に、主イエスが御国=神の国の福音を伝え始められたこと、そしてその後に弟子たちを選び出されたことが記されています。「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました(4:19)。この言葉に応えて主イエスについて行ったのが弟子たちです。

人間をとる漁師とは、主イエスのように福音を伝える働きを任されることです。福音を伝えるとは、ここに幸いがあるということを伝えることです。この幸いは、この世が与える幸いとは違います。それは、ここに教えられている九つの幸いの言葉を読めばわかります。おおよそ幸いとは言い難いことが語られます。そのことを弟子たち=私たちは伝えるのです。

このことは理解されないかもしれません。しかし私たちは主イエスを信じて、この幸いを伝えます。言葉で、また生きる姿で。主イエスに倣って。

貧しさや悲しさは弱さと言って良いと思います。その中にあってなお幸いであるのは、主イエスが共にいてくださるからです。その弱さを担って下さるからです。その弱さの中にある者を神は顧みて下さるからです。主イエスが伝えられた福音とはこれです。

ここに立って今日の言葉を聞きます。憐れみ深い者は幸いです。その人たちは憐れみを受けるから。

憐れみとは、人との関係です。ある人は「愛」と言い換えます。9:13ではこの憐みを「真実の愛」と訳します。主イエスが罪人と食事をしていることを咎めたパリサイ派の人たちに言われた聖書の言葉です。神が喜びとするのは、いけにえではなく、真実の愛だ、と言われたのです。

皆さんはこの憐れみ深いということをどのように受け止めるでしょうか。やさしさ、人にやさしくあることでしょうか。その人は憐れみを受けると言われます。

以前、この九つの幸いの教えは、私たちの常識をひっくり返す、と言いました。でも、今日の言葉は、私たちの常識の範囲と思えます。

いやいや、私たちが誰に対しても優しく、愛をもって接するということはそう簡単ではありません。真実の愛と言われると、何が真実なのかわからなくなります。戸惑います。自分の気に入った人、好きな人なら優しくし、憐れみ深く接することができますが、誰に対しても分け隔てなくそうできるかというと、難しいことです。

主イエスが、できるだけで良い、と言われたのではありません。そこは分け隔てなく憐れみ深くあれと言われたのです。それが幸いな者だと言われたのです。

ローマ12:17で、誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行え、とパウロは言います。パウロは、主イエスが言われた憐れみ深くあることをこのように語っています。これこそ神が望んでおられ、喜びとされることだというのです。

神の望まれる真実の愛、それは憐れみ深くあることです。前回、義に飢え渇く者の幸いを取り継いだ時、神の義は、神の愛によって完全に明らかにされたと言いました。神が義であるとは、罪をそのままにしておかない方だということです。裁くことによって義は成り立ちます。

その裁き、義を私たちにではなく、私たちに代わって主イエスに向けられたのです。主イエスの十字架の死と復活によって示されたのです。ここに神の義と愛が一つになりました。憐れみとは、罪の赦しによって具体化されたのです。ここに神の真実の愛が明らかに現わされたのです。

憐れみ深い人とは、この神の真実の愛に生かされている人です。その真実の愛、憐れみを信じている人です。その意味では、義に飢え渇くとは、憐れみ深く生きることでもあります。神の義を求める者は、神の真実の愛に生かされていること、赦されていることを覚える人のことです。

もし、私たちが憐れみ深くあることが難しいと思うなら、その貧しさを知って飢え渇いて祈り求めます。その時、私たちは自分の生き方に、神の憐れみを少しでも映し出そうとするのです。憐れみ深く生きるのです。

その人が幸いだと言われます。なぜなら、その人は憐れみを受けるからだと言われます。満たされるのだと言われるのです。

心の貧しい者の幸いがまず語られ、その後に義に飢え渇く者の幸いが語られました。そしてその後に憐れみ深くある者の幸いが語られることに意味があります。

心の貧しい者とは、自分の憐れみの貧しさを知る者であり、神の義に飢え渇いて求める者であり、神の憐れみを求めて祈る者であります。

この人たちこそが幸いだと言われます。神に祝福される者だと言われるのです。憐れみを受けると言われるのです。

神の憐れみは、主イエスによって明らかにされました。主イエスこそ、憐れみ深いお方です。私たちキリスト者は、この主イエスのお姿に倣い従います。神の憐れみを受け、神の憐れみに生き、憐れみ深く生きるのです。