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3月1日説教要旨 「神を見る幸い」 マタイ5:8

今、主イエスの教えられた九つの幸いを一つひとつ読んでいます。今日はその6番目。心の清い者は幸いです。その人たち神を見るからです。

主イエスはこれを弟子たちにお教えになりました。弟子とは、主イエスが呼び集めた人たちです。私たちキリスト者です。キリストの心をわが心とする者たちです。主イエスの教えに従って生きる者たちです

主イエスは私たちをこの幸いに生きるようにと招いておられます。心の清さを持つ幸いに生きるようにと招いておられます。礼拝は、その主イエスの招きに応えて生きることです。

ある説教者は、この言葉は、私たちに心の清さを問う言葉であると言っています。問われているということは、求められているということです。

主イエスが求めておられる心の清さとはどういう清さなのでしょうか。清いという言葉は、純粋なという意味です。汚れていない。無垢であるという意味です。そのような純粋さはある意味、子どもっぽいことと思われます。子どものように純粋な、と私たちは言うことがあります。それは、大人になったらそんな純粋ではないということでもあります。自分を省みても、純粋さにかけているなあ、もうなくしてしまったなあと思います。

清いという言葉の前に顔を隠したくなる思いになります。あるいは、私みたいに純粋でない者には関係のないことと思ってしまいます。

ある人は、この清さを「単純」と言い換えます。それは裏表がないということです。影がないということです。そうするとますます自分とは関係のないこと、難しいことと思えます。主イエスはここに語りかけます。ほとんど挑戦的に心の清さを求められます。

だから私たちは、顔を隠すわけにはいきません。私には無理、関係ないと顔を隠し、背を向けるわけにはいかないのです。

なぜなら、心の清い者は神を見るからだと言われるのです。

神を見る、ということは、聖書においてはとんでもないことです。イザヤ6章には、イザヤの預言者としての召命のことが記されています。そこでイザヤは高く上げられた御座についておられる主を見た、と言います。そして5節で、自分は滅んでしまう。主をこの目で見たのだから、と言います。

主の顔を見る、神を見ることをイザヤは死ぬほど恐れたのです。しかし、彼は死なずに預言者として神の言葉を語る者になりました。

主イエスはここで言われます。神を見る。恐れはありますが心の清い者は、神を見ることができると言われたのです。

神を見るということは、神に見られているということです。そうなると私たちが神を見るということががぜん身近になります。私たちは神に見られているのです。信仰を持つとは、神を信じるとは、神に見られていることを知ることです。私たちが神を見るよりももっと深く、神の鋭いまなざしに捕えられていることを知ることです。

山上の説教において主イエスは、隠れたところで見ておられる神についてお語りになっています(6:4,6)。そして、神は知っておられるとも言っておられます(6:8)。

罪を犯した時、私たちは神の前に顔を上げられない思いを持ちます。ダビデも詩篇51:9で、御顔を私の罪から隠して下さい、見ないで下さいと祈ります。私たちも同じ思いを持ちます。

しかし、この思いは神を真っすぐに見ている姿でもあります。ダビデは罪を犯した時、神の御前に崩れ落ち、赦しを求めました。まっすぐに神に心を向けたのです。心の清さとはこれです。まっすぐに神に心を向けることです。これこそ神を見る心の清さです。

信仰を持つとは、神を信じることであり、神の御前に、そのまなざしの中に自分を差し出すことなのです。ここにおいて、愚直なほど単純に神を信じる心こそ、主イエスが求めておられる心の清さです。

多くの説教者が今日の言葉について書いているのは、詩篇51篇の引用です。これは悔い改めの詩篇と言われます。10節にあるように、心の清さが主題となっています。

この51篇は、表題にある通り、イスラエルの理想的な王ダビデが、家来のウリヤの妻、バテシェバに横恋慕し、夫ウリヤを自分の手を汚さず、激しい戦場に送って死なせて奪い取ったということの後、その罪を預言者ナタンに責められてその罪を悔いて泣いた時の歌だと言われます。

この祈りの中でダビデは祈ります。私に清い心を作って下さい。あなたのまなざしの中で立つことできる清い心を作って下さい。神に顔向けできないような罪を犯したのにこう祈ります。虫のいい話かもしれません。

しかし、そう祈らざるを得ないのです。神の憐れみを求め、赦しを求めたのです。心の清さは自分では作り出せないのです。神につくっていただく意外にないのです。心の清い者とは、このように神の御前に悔いくず折れて祈る者です。

17節には、神へのいけにえは砕かれた霊、砕かれた心、神はそれをさげすまれません、とあります。この祈りにおいて私たちの心は清くなります。

神を見る。これは何よりも今、主イエスを見つめることによって神を見ています。主イエスを信じ、主イエスを見ることによって私たちは神を見る清い心をいただくのです。

そしてもう一つ、神を見るのはやがてのこととして起こります。世の終わりに起こることです。Ⅰコリント13:12には、私たちは、今はぼんやりと見ているがその時には顔と顔を合わせて見ることになる、とあります。

この目でいつか必ず神を見ると約束して下さっています。私たちはこの望みに生きるのです。

神を見ることほどの幸いはありません。心の清い幸いな者とは、この希望に生きる者なのです。